和歌つれづれ ―武人の歌―

 
私たちが和歌に触れる機会といえば、まず百人一首、そして教科書の古典文学が、そのほとんどだと思います。そのため、その狭い範囲から洩れた多くの歌人の歌については、どうしても目にする機会が乏しくなります。ましてや武人の詠んだものとなると、文学的価値も低いような漠然とした思い込みも手伝って、ますます接する機会は遠くなるのではないでしょうか。
 文学的価値ということはひとまず置いて、しかし武将たちの残した歌は、興味深いものがあります。その人となりをよく表わしている歌あり、一般的な人物像からはズレた歌あり。いわゆる「歌よみ」ではない彼らの詠んだ歌には、かえって生々しい形で、その人物のある瞬間の精神というものが、凍結されてあるように感じるのです。拾って読んで行くと、過去の人物と、長い時を越えて思いがけず出会ったような、そんな気持ちになることがあります。
 私が好きな歌を、思いつくままに幾つか紹介してみたいと思います。

      
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 戦国時代の武将、武田勝頼。かの武田信玄の嫡男です。父の死により家督を継ぎますが、信玄というカリスマを失って動揺する武田家中の掌握は、若い勝頼には困難でした。勝頼つきの武将と、信玄の子飼いの家臣との間に次第に対立が生じ、それが遠因となって長篠で織田信長・徳川家康の連合軍に大敗してしまいます。力を回復出来ないまま、国人衆や一門衆の造反が相次ぎ、最後は家臣の寝返りにより天目山で自害しました。享年37。家督相続からその死までわずか10年でした。その勝頼の歌。

夏山の 遠きこずゑの 涼しさを 野中の水の 緑にぞ見る

 野辺の池に藻が浮かんでいるのか、または水辺の草が映っているのでしょう。水が涼しげな緑に染まっている。その様を見て、遠方の夏山の涼しさを想像してみる……。それだけの歌ですが、澄んだ静けさのある、きれいな歌ではないでしょうか。どこにでもあるような、ごくありふれた情景に深い情緒を感じ取る詩情や、その詩情を色彩鮮やかに読み込む、勝頼の精神の細やかさが垣間見えます。父の遺志を継ぐこと、父を越えること、拡大する織田勢力に対抗し家を支えること、勝頼の人生には、英雄の子として必死にもがき続けた苦労がしのばれます。息つく暇もなかった日々の中にひと時おもてに現れた、勝頼という人の静寂の一面です。

      
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 続いては室町時代後期の守護大名、山名宗全(そうぜん)です。「万人恐怖」の強権政治を行い、最後は家臣の屋敷で暗殺された将軍、足利義教に仕えました。暗殺事件(嘉吉の乱)の時は、宗全も将軍に供奉してその場に居合わせていましたが、将軍を助けずに脱出し、しかしのちに乱の首謀者である赤松満祐の討伐に功を上げて領地を賜わっています。山名氏はこれで、あの「六分の一殿」の時代を超える広大な領地を手にすることになるのですから、なかなかのしたたか者です。
 また幕府管領細川勝元や、西国の大大名、大内教弘らと婚姻を結び、幕政に影響力を発揮しました。その実力を八代将軍義政の室、日野富子に見込まれ、富子の子、義尚を擁し西軍の大将として応仁の乱を戦うことになります。最後は応仁の乱の陣中にて、69才で病没しました。武勇に優れ、しかも一方では政治の泥仕合もこなす食えない老将。そんな人物像が浮かびます。その宗全が詠んだ歌

星合の 頼む夕べを 待ちすぎて 床のひとりゐ 夜半ぞふけゆく

 驚いたことに、新古今調を思わせる幻想的な歌です。星合とは七夕のこと。七夕伝説の牽牛と織女のように恋人の訪れを期待しているうちに夜がすっかり更け、ひとり寂しく寝ている。こんな意味でしょうか。
 新古今の歌の多くがそうであるように、この歌も実際の体験を詠んだというよりも、心に思い描いた美の世界を歌ったものでしょう。加えて、七夕の夜に恋人を待つのは織女の方ですから、女の立場で詠んだ恋歌とも取れます。
 乱世の風が次第に強くなって行く時代、「余情妖艶の体」の新古今調に親しみ、「赤入道」とあだ名された西軍の大将にはあまりに不似合いな幻想的恋歌を詠んだ宗全。理解が深まるよりもかえって人となりの謎が深まるような歌です。

      
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 応仁の乱は本当に込み入った合戦でした。発端は、前述のように実子の義尚を将軍にするため、日野富子が山名氏の力を借りてもともとの後継者であった足利義視(義政の弟)の追い落としをはかり、義視派の管領細川勝元がこれに反発して兵を挙げたことです。義尚を擁する宗全に対し、勝元は将軍義政を擁し官軍となり、言わば賊軍の宗全を迎え撃ちました。山名と細川、幕府の二大実力者同士の対立はおのずと各国の大名を巻き込んで、戦いは拡大化、複雑化、そして長期化することになります。
 しかし合戦が長引くうちに、幕府内の事情に変化が起こります。将軍義政が、富子の言に従い義尚を後継ぎとする意思を示し始めたのです。義視派であったはずの勝元までも、義政を擁している関係からこれに同調してしまい、身の危険を感じた義視は出奔します。そして宗全によって「新将軍」として西軍に迎えられるのです。公的には未だ義視が次期将軍ですから、勝元の東軍に対抗するため、こちらも「将軍」の錦の御旗を掲げたというわけです。南北朝時代には南北に二つの朝廷が存在しましたが、この時は東西に二つの幕府、二人の将軍が並び立ったのでした。
 しかしそもそも宗全にとってこのいくさは、義視を追って義尚を将軍に立てるためであったはずでした。それが、義視を擁して義尚のいる御所を攻めることになった時点で、宗全にしてみればいくさの大儀は失われたも同じです。山名一族の中には厭戦気分が広がっており、宗全もいくさの続行に疑問を抱いたのでしょうか、開戦から6年後の文明4年(1472年)、宗全と勝元の間に和議が持たれます。この和議は赤名氏の反対などもあって難航し、するうち、宗全は翌文明5年3月、病没します。ふた月後の5月には勝元も後を追うように病で没しました。(山名側による暗殺説もあります)
 東西両大将の死で、乱は収束に向かいます。義政は義尚に正式に将軍職を譲り室町邸を去り、文明6年には山名と細川の間に和睦が結ばれました。義視は義政に恭順を誓って美濃に去り、諸大名が撤収して西軍は事実上解体。11年にも及んだ大乱はこうして終わりました。
 西軍の主力であり宗全の終生の盟友であった大内政弘(まさひろ・前述の大内教弘の子。宗全には孫になります)が応仁の乱を振り返って詠んだ歌があります。

わきかねつ 心にもあらで 十(と)とせあまり ありし都は 夢かうつつか
(区別することができない。心ならずも十余年過ごした都の日々は、夢なのか現実なのか)

 この大乱に参加して得をしたという人は、あまりいないと思います。政弘もわざわざ遠く周防から京へ上り、10年も国を留守にして尽力したにも拘らず、特に得たものがあったわけでなく、国許では留守中に叔父教幸による反乱が起こり(結局留守居役の重臣陶弘護に鎮圧されました)、終戦後は義尚に弓を引いたとして、富子に多額の賄賂を贈り改めて守護職を安堵してもらうという、つまらない尻拭いが待っていました。
 日本中を巻き込んでの10年ものいくさは、結局何の意義があったのか。盟友の宗全の死と、国の荒廃が残っただけであった……。いくさの高揚も醒め、遠くなった京の町を振り返って洩らした、政弘の太いため息が聞こえるようです。
 大内家は代々和歌・連歌の嗜みが深い家柄ですが、政弘は歴代当主の中でも最大の歌人でした。生涯に詠んだ歌は実に二万余首。晩年英因法師らに命じてその中から1100余首を選ばせ、家集「拾塵和歌集」を残しています。
 その中から私の好きな一首

水くらき 木陰にうすく 見え初(そ)めて 夜になるままに そふ蛍かな

 夕暮れ時、木陰の薄暗がりの水にうっすらと光り出した蛍の光が、夕闇が深くなるにつれて明るくなって行く――。観察眼のみずみずしさ、夏の日が静かに暮れて行くその時間の経過を捕らえる繊細さ、豊かな感性の光る情景歌です。

      
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 最後は足利直義(ただよし)、室町幕府を開いた足利尊氏の弟です。彼の人生は良くも悪くも、一才違いの兄・尊氏との拘わり抜きには語れません。後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉幕府打倒の兵を挙げた尊氏に、直義は始めから付き従い、のちに室町幕府の発足時には、尊氏が軍事面、直義が裁判を始めとする内政面を分担するという、いわゆる二頭政治を尊氏と共に執ります。
 おおらかで、気まぐれですらあった尊氏に対し、直義はひたすら生真面目で几帳面な性格でした。室町幕府が発足した当時は、朝廷も武家社会も混乱した中であり、いきおい、それは山積した多くの問題を抱えてのスタートにならざるを得ませんでしたが、にも拘らず、幕府が比較的順調な滑り出しが出来たのには、持ち前の几帳面さで煩雑な内政を一手にこなした直義の手腕によるものが大きかったのです。いわば室町幕府の陰の立役者でした。
 では直義の歌です。

うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん

立ちかへり 又もとへかし 別れぢの のちも夜ぶかき 有明の空
(引き返して、もう一度訪ねて下さい。別れの後も、まだ夜は深い有明の空ではありませんか)

露ながら 千草ふきしく 秋風に みだれてまさる 花の色かな
(露をつけたまま、色々な草が秋風に靡き伏し、吹き乱されて、普段より増さって美しい花の色であることよ)

 一首目は、自らの人生観を率直に詠んだ歌でしょう。人の世とは憂鬱なものだ。全ては人のためと思わなければ何を生きる慰めにしようか、という意味です。しかしひるがえれば、直義は「人のため」に苦難に耐えることの出来る、強靭な精神を持っていたことがうかがえます。彼の人となりがさりげなくにじんだ歌です。
 後の二首には、藤原定家の影響が見て取れます。定家は鎌倉時代の人、後鳥羽上皇の勅命によって編まれた「新古今和歌集」を代表する歌人です。
 「立ちかへり…」の歌は、きぬぎぬの別れを女性の側から歌った恋歌です。恋歌をあえて女性の立場で詠む手法は、定家がしばしば用いたものでした。三首目の「露ながら…」は、定家の歌「なびけどもさそひもはてぬ春風にみだれてまさる青柳のいと」を参考に詠まれています。秋草の、野分に吹き乱れた様の美しさを歌い上げていますが、きちんと茎をもたげている草花ではなく、あえて風に倒れ伏した花の上に凄艶な美しさを見るその詩情には、確かに定家に通じる美学があります。
 直義は仕事一筋の生真面目な人物でした。例えば兄の尊氏は田楽が好きで、見物のためしょっちゅう留守にしていましたが、直義の方は、政に差し支えてはならぬからと、生涯見物に行きませんでした。また、あちこちから届けられた贈物を家臣に気前よく分け与えた尊氏に対し、直義は贈物を受けること自体を嫌って、始めから断わっていたという逸話もあります。こんな堅物人間の直義が、定家の妖艶な歌風に傾倒していたとは少し意外に思われます。が、それは偏った見方かもしれません。
 直義は自らが理想とする政治のあり方を生涯かけて求め続けた人でした。彼は政治の理想を北条泰時の執権政治に見出したのです。100年も前の政治を踏襲しようという直義の理念は当然非常に保守的なものであり、伝統的な東国型の豪族武士団や、寺社本所勢力の支持を得た反面、この当時勃興して来た新興武士層からは強い反発を受けましたが、直義は妥協しませんでした。
 直義の政治に反発する新興勢力は次第に尊氏の下に集まり、一方で保守層は直義の下に集まりました。結果、ずっと手を携えてきた尊氏・直義兄弟は二手に分かれて戦うことになるのです。「観応の擾乱」と呼ばれる一連の合戦は直義の敗北に終わり、文和元年(1352年)2月26日、直義は幽閉されていた延福寺で急死しました。死因は黄疸と言われていますが、尊氏による毒殺説も根強くあります。
 直義は、自らの信念に忠実すぎる人でした。厳格で高潔なその人となりは、しかし時として周囲には理解されず、軋轢を生み、内乱を引き起こす結果となりました。理想を追うあまりにかえって自分の周りの世界にヒビを入れ、守るべきものすら最後には壊してしまった直義の生き方を見るにつけ、直義という人は、冷静な理知性を持っていた一方で、強いロマンティシズムの持ち主であったように、私には思われてなりません。そして、直義がそのような人物であったとすれば、新古今・定家の、純粋な美の世界を求道的に追い求める歌風に惹かれたのは、むしろ当然に思えます。
 足利氏の国家平定に重要な役割を果たした直義ですが、彼は、決して政治家向きの人間ではなかったと思います。しかし本当なら不向きであったはずの政治において大きな責任を担ったこと、そしてそれをこなすだけの力量を備えていたことが、直義の不幸だったかもしれません。乱世の中でひとり、高潔な理想を求めて身を滅ぼした、足利直義という愚直な人物が、しかし私は好きです。
(2010/09/09)

 参考資料
■Wikipedia
武田勝頼 / 山名宗全 / 足利義尚 / 細川勝元 / 大内政弘 / 足利直義 / 藤原定家 / 応仁の乱 / 新古今和歌集
千人万首
水垣久氏による気楽に和歌の世界を逍遙できるサイト「やまとうた」より。上古から江戸時代まで約900歌人・9000首が紹介されています。歌には注釈がついており(ついていない人もいます)、和歌に詳しくない人も気軽に楽しめます。歴史上の好きな人物の歌を捜してみても楽しいと思います。
武田勝頼 / 大内政弘 / 足利直義
甦れ歴史空間 〜大内文化まちづくり〜
山口市の歴史、大内氏にまつわる文化・イベントの紹介などを行っているサイトです。(著作:山口市文化政策課・制作:NPO法人歴史の町山口を甦らせる会)毎月25日前後に更新。大内政弘の歌については、こちら(「大内文化コラム」)にも多数紹介されています。
大内政弘の和歌から / 大内政弘の和歌を味わう・技巧編 / 大内政弘の和歌を味わう(2)・海士編 / 大内政弘の和歌を味わう(3)・雑編



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