書評  川端康成「片腕」

 
変わった設定の小説です。川端の小説世界に親しんでいる人にはさほど驚くものではないのかもしれませんが、2、3編しか読んだことのなかった(それ程好きではないので……)私には、かなりの意外性を感じた作品でした。

「『片腕を一晩お貸ししてもいいわ。』と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。
『ありがとう。』と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。……」

 唐突にこのような一文で、小説は始まります。この娘は誰なのか、主人公の男とはどんな関係なのか、そうした背景は何も説明されません。(ただ読み進めると、レストランでたまたま見かけた娘の美しさに惹かれ、腕の拝借を申し出たらしいことがうかがわれます)読み手には何も知らされないまま、主人公の男は片腕を受け取り、外套の下に抱き隠して、家路につきます。アパートの部屋に着くと、娘が予告したとおり、腕は喋り始め、男は娘の腕と会話などしながら、眺め、触れ、手を握り合わせて肘を動かして、幻想的で孤独な交歓が繰り広げられるというのが、おおまかな筋です。
 川端にはこの「片腕」と似た系列の作品として、「眠れる美女」があります。「片腕」より3年程前に発表された作品で、老人がとある隠れ宿で少女を買うという話です。しかし買うといっても、裸体の少女たちは皆、呼んでも叩いても目覚めないほど深く眠らされており、客の老人も、ただその傍らで添い寝するだけなのですが……。
 「性的欲望は、相手の身体から、その衣服とともにその運動をも取り去って、この身体を単なる肉体(物体)として存在させようとする一つの試みである」とはサルトルの言ですが、確かに、衣服のみならず意識までも剥ぎ取られた少女は、文字どおり人ではなく物体、まったくの客体です。しかし、この「眠れる美女」において特徴的であるのは、その客体(少女)に、主体(客)が交わり得る余地を排除している点です。宿は幾人もの老人をお得意に持っていますが、彼らは皆、男性的機能を失っています。そして宿の女将は、客に、少女の身体を傷つける行為は何であれ(口に指を入れてみるようなことすらも)かたく禁じています。
 一糸纏わぬ姿にされ、正体もなく眠らされて、単なる物体に貶められながらも、その純潔を守られた少女。しかしそれは人としてではない、あくまで物体としての純潔なのです。これは陵辱でしょうか。それとも崇拝でしょうか。
 一方「片腕」の方は、前述のように娘の腕とは、交渉は可能です。腕は話をし、笑い、主人公にふざけかかったり、また優しいいたわりを示してくれます。そして主人公に訊かれるまま、腕を貸してくれた娘が、髪を下ろすと腕につく程の長さであるとか、冷たい水で髪をすすぐ癖があって、冷えた髪が乳房にあたると心地がいいのだとか、娘自身に訊いたならば恥ずかしがって答えないであろう、そんなことまでを無邪気に語って聞かせ、主人公は「娘のからだを離れて来た片腕は、母体の娘のつつしみ、あるいははにかみからも離れているのか」と、考えます。
 ここで私たちは、如何に豊かな交わりを行おうとも、娘の腕は「娘の分身」ではあり得ない、やはり「単なる物体」でしかないことに気づかされます。腕が有しているのは「物体としての」異形の心に過ぎないのです。娘の腕が主人公に行為を許せば許す程、それはより強く浮き彫りになって行きます。主体と客体との孤独な距離は、交渉の全く絶たれた「眠れる美女」よりもむしろ遠くなっています。
 この不思議な小説は、フェティシズムともネクロフィリアとも解釈することが出来ます。実際川端には「死体紹介人」という、女の死体と婚姻する話もあり(これは未読です)、エロティシズムと死の融合という幻想を色濃く抱いていたのは間違いありません。しかし、私はむしろ、この作品において川端が求めたものは「眠れる美女」よりもさらに深まった「純潔性」「処女性」であるように思います。それは「禁」によって守られる純潔ではなく、他者に身を許してなお保たれる、絶対的とも言える純潔です。
 ロラン・バルトが、「真にエロティックなものは衣服と素肌の間にある」と述べた、その言葉どおり、エロスとは「肉体」でも「行為」でもなく、すなわち「捕えられないもの」であると思います。捕えるほどに遠ざかり、捕え得ると見えて決して交わり得ない、その永遠の隔たりこそがエロスの本質ではないでしょうか。そして川端は、「人」と「物体」の間を漂う美しい右腕と、そしてその右腕が有する純潔によって、主体との間に隔てられた距離を通して、「エロスそのもの」を、鮮やかに封じ込めることに成功したと思います。代表作の「雪国」などよりも、このようなある種の倒錯性が突き抜けた作品にこそ、川端の美学の真骨頂があるのかもしれません。
(2010/7/30)

 参考
■「片腕
日本ペンクラブ電子文藝館で閲覧出来ます



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