歴史を眺める目

 
今回は後醍醐天皇と、そして天皇の膝元で起こった、護良(もりよし / もりなが)親王謀反事件の話から始めたいと思います。
 後醍醐天皇は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した人です。鎌倉幕府を倒して、有名な建武新政をしき、そして後には足利尊氏と対立して京を追われ吉野で南朝を開きました。鎌倉幕府を終焉させ、南北朝動乱のきっかけを開き、まさに時代の変動に両足をかけたような人生でした。激しい程の野心家。権力欲の塊。個性の強さは群を抜いています。歴史上の人物として眺めるならば非常に魅力的ですが、しかし実際に身近にいたら非常に迷惑な人であったろうという気がします。
 さて、件の護良親王の事件は、建武新政が始まったばかりの建武元年(1334年)に起こりました。護良親王とは天皇の第三皇子です。もともとは叡山で天台座主を務めていましたが、天皇が討幕計画に失敗して隠岐に流罪になると、還俗して討幕に加わります。挙兵を促す令旨を各地の豪族に送り、自らも楠木正成らとともに幕府軍と戦いました。この、楠木軍の勢力拡大が討幕の大きな原動力となったのですから、護良親王は最大の功労者の一人であったわけです。
 しかし乱の後、親王は政権の中で頭角を現して来た足利尊氏と反発し合うようになります。尊氏は六波羅探題の陥落した跡に奉行所を設け、各地から持ち込まれる、領地安堵の嘆願書を捌く仕事などをしていました。つまりは六波羅探題の機能を継承したことになるわけですが、しかしそれは天皇が任じたものではなく、いわば尊氏が私設の奉行所を作って勝手に始めたものでした。尊氏の影響力が強まる一方で、貴族中心の親政は早くも武士の失望と反発を買っていました。このまま捨てて置けば尊氏は北条に代わって天下を握りかねない。そもそも六波羅をおさえたことに、武家の棟梁となる腹づもりが透いて見えるではないか……。危機感を抱いた親王は信貴山で武備を固め、尊氏を討とうと画策します。しかし察知した尊氏は先手を打ちます。天皇の寵妃・阿野廉子に取り入り、親王は諸国の兵を召集し皇位簒奪をはかっていると、天皇に讒訴させました。
 親王は参内したところを捕えられ、尊氏に引き渡されました。そして尊氏の弟、直義が執権として治めていた鎌倉に送られ、東光寺に幽閉されていましたが、翌年、北条の残党に鎌倉を攻められた際、敵に奪われて奉じられることを恐れた直義によって、親王は殺害されてしまうのです。
 親王が勝手に兵を招集しようとしたことは事実だったのかもしれません。その証拠を尊氏に出されて、天皇は親王を断罪せざるを得なくなったのではないかと思われますが、しかし親王が朝廷で裁かれず、尊氏に身柄を引き渡されたのは不可解です。これは私闘の解決法です。この当時、私闘があった場合、加害者の身柄を被害者側に渡し、処分を委ねるということが一般的に行われていました。つまり、天皇への謀反で捕えられたはずの親王が、尊氏との私闘で裁かれたことになるのです。これはもちろん、敵対者を失脚させたい尊氏の強い要求があったためなのですが、それにしても不思議なのは、権力を独占したがる天皇が、裁判権をあっさりと放棄し、また親王を庇った跡も見当たらないことです。
 南北朝時代の軍記物語で歴史書の「梅松論」(作者不明。尊氏の側近とも)はこの事件について「親王が尊氏を討とうとしたのは、そもそも天皇の命令であったのだ」と述べています。しかし天皇は、その弱みを尊氏に突かれそうになると、全てを親王に被せました。尊氏の要求を飲むことで自分だけ逃げたのです。親王は幽閉された後、尊氏よりも天皇が恨めしいと独り言していたと言います。
 作家の新田次郎氏は、親王の謀反事件についてはこの「梅松論」の見解が最も真実に近いのではないかと推測されています。そして、
「後醍醐天皇は部下の犠牲において身を守ろうとする傾向があった」
 との短い人物分析を付け加えました。
 私は、氏がここで、「傾向」という、漠然とした言葉を用いたのがとても興味深いと思います。かつ、この短い一言が、後醍醐天皇の人となりを鋭く突いているように思われてならないのです。
 確かに、天皇が「部下の犠牲において身を守ろうとした」のはこれ一度きりではありません。未遂に終わった二度の討幕計画、正中の変および元弘の乱でも、天皇は同様の行動を取っているのです。正中の変の時は、討幕の密議を朝廷の反天皇派に密告され発覚したのですが、発覚後天皇はすぐさま幕府に、計画は側近日野資朝が独断で行ったことであり、自分はあずかり知らぬとの書簡を送り、責任を逃れました。ちなみに日野資朝は、武士への懐柔工作を行うなど、計画の中核を担っていた人です。
 元弘の乱の時は、何と密告したのは天皇自身でした。討幕の準備が充分整わないうちに幕府に嗅ぎつけられてしまったため、側近で乳父(養育係)でもある吉田定房を鎌倉に送り、日野俊基、文観といった側近を身代わりにして追及をかわそうとしたのです。しかし天皇の当ては外れ、幕府は強硬策に出ました。結果、天皇と文観は流罪、日野俊基と、先の変で流罪となっていた日野資朝は処刑されてしまいます。そして前述の護良親王のこと。また、後の尊氏との戦いの中で、楠木正成に充分なバックアップもなく無理な出陣を強い、討死させたことも加えていいかもしれません。
 こうして並べてみると、自分のために懸命に働いてくれた人を切り捨てることが、天皇の人生には多過ぎます。特に元弘の乱や護良親王事件で見せた残酷さには、どんな説明のつけようもありません。暗愚な人物ならともかく、天皇は激情家ではあっても理知的な人であったと思います。しかしだからこそ、前述の行動の不可解さ、異常さは際立ちます。
 これらの行動の背後に、私は、天皇の明確な思考はどうしても見出せません。むしろ理性の破たんや混沌を見る思いがします。どんな人も、精神の中に、時には自分自身ですら説明のつけられない、不明快な部分を持っています。それは歴史に名を残した、非凡な器量の持ち主とても同じことです。天皇は、自身が危険に晒された時、理性ではなくそうした混沌に押されて行動を決める人であったのでしょう。それが何故かは、恐らく天皇にも分からないのだと思います。敢えて言うならそれこそ精神的傾向、乱暴に言うと精神の持っている「癖」としか呼べないものではなかったか、どうもそんな気がしてなりません。歴史には解析のできない謎がいろいろとあります。情報が欠落したために不明になっている事例も多い一方、この後醍醐天皇の場合のように、かかわった人たちの精神の問題で、後世の私たちには何が何だか事情が分からなくなっていることも多いのではないでしょうか。
 残された資料を調べ、考察を繰り返し、歴史の不明な部分に空想をめぐらすのは、歴史と接する上での愉しみの一つであり、醍醐味です。しかし後世に生きる私たちは時に、河流を空から鳥瞰するように、例えばある人物の行動がどんな結果をもたらし、そしてそれがどのようなことにつながって行ったか、因果関係を非常に明確に読むことが出来るために、情報さえ豊富に与えられたならば、歴史の出来事を全て分析し、解釈を加えられるような、そんな思い込みを知らず知らず抱いてしまいがちです。
 しかし歴史とは単なる事実の連続ではなく、数えきれない人間によって作られた複雑なより糸です。そして人が内面に決して整理できない闇を抱える以上、歴史もまた、決して解析しきれない混沌が残り続けるのが宿命です。解き明かしようのない混沌に、無理矢理秩序を与えようとすれば、真実は私たちから遠ざかってしまうことでしょう。歴史の影を覗くことは、人間の心の闇を覗くことではないかと、後醍醐天皇という人を追っていると、そんなことを思うことがあります。歴史を扱った小説を書いている者としての自戒も込めて、私は、歴史を眺める時には二つの目が必要であると思います。一つは、混沌としたものに辛抱強く光をあて続け、それを解いて行く研究者の目。もう一つは、混沌を混沌のまま飲み下す、詩人の目です。
(2011/3/17)

 参考資料
■新田次郎「正中・元弘の変と建武の中興」
■榊山潤「後醍醐天皇」
(共に、「日本歴史シリーズ7 南北朝」世界文化社 所収)
■佐藤進一「日本の歴史9 南北朝の動乱」中央公論社
■梅松論「護良親王の幽閉」
軍記物の現代語訳を通して南北朝時代から室町時代の歴史を紹介しているサイト、「芝蘭堂(しらんどう)」で閲覧しました。「太平雑記」「応仁記」などたくさんの軍記物が読めるサイトだったのですが、現在はなくなっているようです……。


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