さ み だ れ が み

陶子の周りの人々   
大内義弘 … 左京権大夫、権大夫。大内家第二十五代当主。前年、将軍足利義満に従って上洛し、在京中
今川泰範 … 上総介。陶子の父。今川了俊の甥である
今川了俊 … 高齢の身ながら現在も九州で探題職を務める。陶子の大叔父。作中では名前のみ登場
今川仲秋 … 了俊の弟。この仲秋の娘が、義弘の正室である。名前のみ登場



 小倉の山向こうから来た雨は嵯峨野の一帯を覆い、そのままに、やがて日は暮れた。陶子(とうこ)は塗り椀を小さな盆に乗せ、廊下を渡って行った。先を行く侍女が掲げる灯明の明かりを受けて、陶子の首筋が闇の中にほんのりと浮き上がっている。細く、白く、陶器のように華奢な首元に、椀から立ち昇った湯気が吹き流されて漂った。舞良戸一枚隔てた向こうに、しとしとと雨音が鳴った。
 杉障子の隙間からは、かすかに明かりが洩れていた。金糸のような洩れ灯に、陶子は口を寄せた。
「権大夫様」
 ややあって、男の、低い声が返った。
「陶子殿にござるか」
「はい。お邪魔してもよろしゅうございますか」
「よろしいですよ」
 傍らから侍女が手を伸べて杉障子を引き開け、赤銅色の光が洩れ流れた。陶子は開いた戸の隙間から、小さな子供が大人の様子を窺う時のように、小首をかしげて室内を覗き込んだ。
 権大夫様と陶子が呼んだその人、大内左京権大夫義弘は、床に座りこちらを半ば振り返った格好で、陶子を迎えた。書見をしていたらしく、斜交いにひねった体の向こうに、書見台と、そばに灯明があった。太い首や、彫深い小鼻の脇に炎が強い陰影を作り、白い肌を際立たせている。紺の衣を纏った広い背中が、床をうずめるように大きく影を作っていた。部屋に入る前に小首をかしげて一度中を覗き込む陶子と、書見台や文机から向き直りながらそれを迎える義弘と。昨日までと何ひとつ変わらぬ光景であった。
「まだお休みにならないのですか」
 陶子が言った。
「堀川のお屋敷には明日の朝早くに戻られるのでしょう?」
「早くと申しても、夜明け前に発つわけではありませんよ。休むには少し早過ぎます」
 義弘は笑って、もとどりの辺りに爪を差し入れしきりと掻きながら、書見台の本を閉じた。杉障子が背後に閉まり、侍女の足音が遠ざかって行った。陶子は携えた盆を、義弘の膝元へすすめた。うるみの塗り椀に、褐色に濁った汁が入っていた。
「お休みの前に飲んでいただこうと思って、お持ち致しましたの」
「薬湯ですか。これはかたじけない」
 義弘は椀を取り上げた。縁に口を寄せ、息で冷ましながらすすり上げた。白い湯気が吹きちぎれて、闇間に溶けた。
「苦いですか」
 椀をすする義弘の表情を察して、陶子が可笑しそうに訊いた。
「少々、苦うござりまするな」
「残してはなりませぬよ」
 義弘が椀を盆に戻しかけたのを、陶子は怖い顔で制した。
「一体、何に効く薬ですか」
「体が温まって、よく眠れます」
「左様にございましたか。わたしはてっきり、眠気払いの薬湯かと」
 冗談を言って、義弘は椀を取り直した。
 風にあおられていっとき雨が屋根の上に強まり、雨音が、向き合って座る陶子と義弘の頭上に、急に厚みを持って覆いかぶさった。
「ふた月もの間、皆々様にはまことに世話になり申した」
 雨音の中で義弘が言った。
「急な話であったにも拘らず、三条殿も陶子殿も快く迎えて下さいました。おかげで京の春を心ゆくまで堪能し、詩嚢(しのう)を肥やすことが出来申した」
「そうおっしゃっていただくとわたくしも嬉しゅうございますわ。けれどもね、権大夫様、嵯峨野がお気に召したのであれば、もう少し屋敷においで下さればよろしゅうございますのに。わたくしも、母も、構わないのですもの」
「かたじけない。ではその言葉に甘えて、また遊びに参ります」
 からりと義弘は笑った。父と歓談する時よりも、酒の席で皆に冗談を言う時よりも、部屋で陶子と二人過ごした時に一番よく見せた笑顔である。初夏の陽光のぱっと閃くような、それは陶子の最も好きな笑顔だった。
 義弘は薬湯を飲み終え、空になった椀を膝元の盆の上に戻した。と、頭をうつむけたはずみに、髷(まげ)がほつれていたのか、
耳の上に細い髪束が幾筋か、はらはらと落ちかかった。
「あら権大夫様、おぐしが」
 陶子が気づいて言った。義弘も気づき、指でほつれた髪を撫でつけた。
「もとどりが崩れたのでしょう。手で撫でつけただけでは直りませんわ。わたくし結い直して差し上げます」
「いや、陶子殿を煩わすには及びませぬ。明朝命じて直させまするゆえ、そのままで」
「出がけではそれこそ煩わしいではありませんか。少しお待ち下さいね、直して差し上げますから」
 言いながら陶子はもう立ち上がっていた。蝶の飛び立つように出て行ったと思うと、少しして手に櫛箱を携え、耳だらいを持った侍女を従えて戻って来た。櫛箱、耳だらいと脇に並べ、書見台の傍らに立ててあった燭台を手元に持って来させた。
「さあ権大夫様、どうぞこちらへ」
 手伝おうとした侍女を手を振って下がらせ、陶子は義弘を差し招いた。義弘は少し苦笑を浮かべたが、しかし言われるがままに立って来て、陶子に背を向け座った。長身の義弘の元結いを解くために、陶子は腰を浮かせ膝立ちになった。少しうつむき加減の逞しい首に、ほつれた髪が墨を刷いて散っている。漆黒の髪の下に、うなじが清らかに白い。傍らに据えた燭台の炎が、下顎から首筋にかけて霞んだ金色の隈どりを作っていた。紺色を纏った背は広く、間近に見ると眼前いっぱいに迫るほどに思われた。
 二つ折りに結い上げられた髷に、陶子は手をかけた。結び目をさぐり、さぐりあてて爪先に力を込めほどいた。堅く巻き付いていた元結いは白く螺旋を描きながら難なく解け、支えを失った髷はたちまち形を崩した。もとどりを押さえていた陶子の手から髪が水のように次々とこぼれ、軽い衣ずれを立てて肩に落ちた。
 陶子は膝元の櫛箱に手を伸べた。櫛箱は銀朱の漆塗で、ふたに二匹の胡蝶の舞い遊ぶ姿が沈金で施されている。ふたを開け梳櫛(すきぐし)を手に取った。中に収められた櫛笄の一式も、箱の意匠に倣い銀朱地に胡蝶の文様である。少女の陶子にはともかく、歴戦のもののふである左京権大夫義弘の髪を梳くには、その可憐な櫛はいかにも不似合であった。
 肩ごしに櫛を伸べ、まず右の小鬢(こびん)に陶子は櫛の歯をあてた。髪の流れに沿いながら背の方へ梳き流すと、櫛歯は引掛りもなく髪の中を滑り、そのまま毛先からするりと抜けた。櫛から逃れて毛先が肩の上に一瞬躍り、布地を打ってかすかな音を立てた。
「――権大夫様。権大夫様に見ていただいて、わたくし少しはお歌が上達したでしょうか」
 次にこめかみの辺りに櫛をあてながら、陶子が訊いた。
「上達致しましたよ。わたしの如き未熟者が申しては少々おこがましゅうござるが、詞(ことば)の選び方など目に見えて良くなられました。やはり探題殿、今川了俊殿のお血筋ですな」
「そうだとよろしいのですけれど」
「いや、陶子殿は自らに才がないと頑なに信じておられるようだが、景色、情感を捕らえる良い目と、詞に対するみずみずしい感覚とを、陶子殿は持っておられます。いずれきっと、人々の心を揺り動かす歌を詠まれますよ」
「ありがとうございます。そのお言葉を胸に刻んで、精進致しますわ。――権大夫様は、京にはいつまでおいでになるの?」
「今のところは何とも申せませぬが。ただ、島津氏久が没したことで九州の状況も好転し、また探題殿のねばり強い経略が功を奏し、宮方(九州の南朝勢力)も近頃目立った動きを見せてはおりませぬ。陶子殿の大叔父殿を助けに、権大夫が九州へ馳せ参じる必要は当分ありますまい」
「では、またお歌を見ていただけますね」
 櫛を動かしながら、陶子は義弘の後頭部に向かって言った。一見華やいだ口調であったが、背を向ける義弘を見つめる目にはふと、口調とは裏腹の翳りがよぎった。
 語るに合わせ、肩に垂れた義弘の髪が揺れた。照らす灯明の火が髪のおもてをさざなみ立って流れ、結い跡のところで、光は強く屈折して、輝いた。流水の清らかさと陶子は思った。髪のゆらめきを、陶子は優しく掌に受けた。黒髪は既に夜気を含んでずしりと冷たい。陶子はたゆたう潮を思った。堺の津より出で、潮流は雄々しくうねって内海を西へと進む。潮はやがて鮮やかな瑠璃色に変わり、源平の世に平清盛入道より篤い信仰を受けた厳島の磯を洗い、そして周防の岸へと流れ着いてようやく身を休める――。その、蒼い潮の満ちる周防国が、義弘の領国なのだった。
 くしけずられる黒髪の中に、陶子は義弘の故郷の地を夢想した。量豊かな髪に、銀朱の櫛は時折、呑まれてしまいそうになる。揺れる髪の布地をかすめる音、嵯峨野を覆い降り続く五月雨の音、蕭々たる雨声に追いやられて地上の音は悉く息をひそめ、静けさばかりがますます部屋に立ち込める。小倉山を越えてまた再び、雨音が強まって歩み寄せて来た。

                    
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