「嵯峨野は、如何でございますか」
 あまり黙っていてはと、陶子はあたりさわりのないことを尋ねた。
「美しゅうございますな」
 義弘は言下に答えた。
「実は嵯峨野はこれまでも二度ばかり訪れておりますが、この、北嵯峨の方へ参ったのは初めてです。上総介殿がぜひにと申されるだけのことはある。まことに美しい土地です。殊に曇った日の美しさには目を奪われます」
「曇りの日でございますか。今日のようなよく晴れた日ではなく」
「曇り日です。雲が灰色に垂れ込めた下に、草木が輝くことをやめ彩りばかりを鮮やかに滲ませ横たわって行く様には、清冽な寂寥がございます。眺めておりますと、この地を愛でたいにしえびとの胸が伝わって参る心地が致します」
 素直な口吻と美しい言葉は、聞いていて好もしかった。とりわけ義弘が嵯峨野の地を評してさりげなく言った、清冽な寂寥という一言は、快い痛みのようになって強く陶子の心中に触れた。
「さて、失礼致した。何の御用でしたか」
 ようやく片づけものを終え、義弘が改めて陶子の方に向き直り、にこやかに訊いた。
「はい、実はお頼みしたいことがあって参りましたの」
 頼みとは、それは義弘に歌を見てもらいたいということであった。既に述べたように、陶子の大叔父、今川了俊は歌人として高名な人であった。それも京を代表する歌人であるのみではない。了俊は歌の点者(歌に評点を加える人)であり、歌論や指導書の著述者であり、歌会の呼びかけ人であり、つまりは京の歌壇全体を指導し、牽引する立場の人だった。京歌壇から活気が失われて久しいとはしきりに囁かれていることだが、それは、この頃冷泉為秀や近衛道嗣といった有力の歌人が相次いで没したのに加え、九州下向によって歌壇が了俊を失った、その痛手が未だに尾を引いているせいでもあった。
 そういう人を大叔父に持っているのだという自負は、陶子にもあるのである。歌壇を牽引するような、とまでは思わないけれど、せめて今川了俊の名に恥じぬ歌を詠みたいと、密かな気負いを抱いている陶子であった。義弘が屋敷を訪れることになった時、歌人として名を馳せている権大夫様に歌を見ていただいたらもしや、上達のよすがになりはしないかとの思いが、仁王の如き容姿云々の話とはまた別な流れで、陶子の中にぱっと焦点を結んだのだった。
「成程、歌の指導を」
 陶子の話を聞いて、しかし義弘は承諾に少し躊躇を見せた。
「急なお話で、ぶしつけとは存じますけれど」
「いや、左様なことはありません。ただわたし自身、未だ未熟の身ゆえ、人の歌におこがましく評を加えるのはいささか」
「でも、権大夫様は前関白様や、師成親王様からもたいそうな褒詞をいただいた、巧者ではございませんか」
「また、流派のこともございます。わたしは二条派の師に就きました。御息女は上総介殿より手ほどきを受けられたわけですから当然、冷泉派でございましょう」
 義弘の言ったのはこういうことである。京の歌壇には三派があり、すなわち二条派、京極派、冷泉派がそれであった。二条派は、古今集、後撰和歌集、拾遺集の、いわゆる三代集の古典的形式の墨守を旨とし、他方京極派と冷泉派は伝統的形式を離れ、繊細な詞で「心のまま」を歌い上げるという歌風の違いがある。またその勢力図については、
二条派と京極派は京に盤踞(ばんきょ)し、二条派は後深草天皇の血統をくむ持明院統と、京極派は亀山天皇の血統をくむ大覚寺統と、各々結びついて覇を競った。そして一つ冷泉派は、二派の力の及ばぬ東国においてもっぱら勢力を張った。
 周防山口では、義弘の父弘世が上洛の折に京より二条派の歌人を多く国元に招き、ために二条派の作歌が盛んであった。そして陶子の方は、陶子自身は京の生まれであるが、今川家がもともと本領が駿河であるから、その父から手ほどきを受けた陶子は自然と、冷泉派の歌風に最も親しんでいた。
「お話はもっともですわ。けれどそこを曲げて、ご助言いただきたいのです。わたくし、風情のとらえ方にしても、詞の続け方にしても、筆が迷うばかりで。学ぶほど、海の上に取り残されたように、何処へ進むべきか分からなくなって。権大夫様はお歌に高名な方でいらっしゃいます。ご指導いただけたら、上達のいとくちになると思いますの」
「ふむ……」
「いえ、勿論、ご迷惑でしたら無理にとは申しませんけれど……」
 そう言われて無下に断われる人はいない道理で、義弘は、承知致したとようやく白い歯を見せて頷いた。
「ではもろもろのことはひとまず置いて、見て差し上げましょう。書き置いたものなど、いつでも持参していただければ。――ところで」
 と、そこまで言って、義弘は急に相好を崩し、陶子に悪戯っぽく笑いかけた。
「御息女、周防より上って参った男が、仁王ではなくてさぞ落胆致したのではありませんか」
「えっ」
 陶子が文字どおり飛び上がって驚いたのを見て、義弘はからりと笑った。
「父ですね」
 やっと事態を察して、陶子は言った。
「こちらへ参った晩の、酒の席にて」
 陶子は、義弘が何も知らないと思って、今の今まで平然と顔を合わせていたのであったが、実は義弘の方では、陶子にまつわる笑い話をとうに聞き知っていたのである。陶子は、知らないうちに一糸も纏わぬ裸形を見られていたような気持ちがして、恥ずかしさに全身が火照った。
「あの、でもあれは、あれは父の方がそのように申したのですもの。左京権大夫と申すお方は仁王の如き大兵であるから、わたくしなどは見ただけでひっくり返ると」
 その場にいないのを幸い、陶子はつい、自分の子供じみた空想を棚に上げ父の上に恥を背負わせた。可笑しそうに笑っていた義弘の目が、ふと優しく緩んだ。
「分かりました。では悪いのは全て上総介殿ということで」
 と、このようなことはあったが、陶子は翌日からほとんど毎日のように短冊を携え義弘の部屋に通った。
「陶子殿の歌は、詞を丁寧に選ぶだけでずっと良くなります」
 短冊を見て義弘はそう言った。
 
「替言(かえごと)において大切なことはやはり何よりも根気です。歌詞(うたことば)を選ぶのは時も手間もかかりますが、そこを厭わず、これという一語に行き着くまで飽かずに幾たびも熟考することです。しかし同時に、言葉自体に引きずられて風情を見失わぬようにも、常に心がけねばなりません。そこに気を配るだけで、陶子殿の歌は見違えるようになりますよ」
 替言とは作歌における技術の一つである。心風情はそのままにして歌語に推敲を加え、その景色、風情を詠み表わすに最もふさわしい、極められた唯一の詞を選ぶというもので、これを提言したのは冷泉派の歌人、冷泉為秀であった。二条派の義弘が冷泉派の技巧に言及したことに陶子が意外そうな顔をすると
「わたしは必ずしも二条派の歌論の如く、三代集の歌言(うたごと)からはずれてはならぬとは、思いませぬ」
 陶子が歌の添削を申し出た時には二条派の冷泉派のと言った義弘であったのに、そのような、二条派の歌風を半ば否定するようなことを言って、陶子を驚かせた。
「古今の歌仙が用いておらぬ歌言を用いても差しつかえないと思いまするが、しかし、あまりに奔放な詞は慎むべきです。例えば『春雨』という語があるからと申して『夏雨』などと勝手な言い換えをしてはならぬとは、これはわたしが連歌を学んだ折に言われたことですが、歌においても変わりありません。自儘に造った語は耳新しく、それゆえ鮮やかな印象を与えますが、却って歌全体の趣を損なうあやうさもありますれば。耳立たぬ、なだらかな、聞きよい詞を用いるよう心がけることです。先程わたしはあのように申しましたが、しかし三代集には折に触れ立ち戻るべきですよ」
「難しゅうございますね」
 文机に硯箱や短冊を並べた上で、陶子は眉間にしわを寄せた。義弘はその傍らで、文机は陶子に占拠されてしまっているので、膝の上に手控えを広げ何事か書きつけていたが、しきりと頭をひねっている陶子にくすりと笑いかけた。
「探題殿もよく、そうやって頭から湯気を立てて考え込んでおられますよ」
「まあ、大叔父様が、でございますか」
 陶子は思わず目を見張った。大叔父様、大叔父様と如何にも親しげに語ってはいるが、実のところその大叔父は、陶子が生まれる前に九州に下向しているため、陶子は一度も会ったことはないのだった。歌人として、または幕府要人としての功績ということならば、父を始め周りの大人たちからあれこれと聞かされたが、その人となりを窺わせるような血の通った話はついぞ聞く機会がなかった。義弘のもたらした意外な人間像に、陶子は双眸に光の射し込んだような強い印象を受けた。
「わたくしのように歌詞に悩みわずらうことなどないと思うておりました」
「いや、作歌の際は常に、臭いものにふたをしたような心を抱くと、探題殿は申しておられます。つまり詞において妥協があったという自省が、いつも残るのですな。そのためか、以前に詠んだものを再び取り出し、直しを加えては思い悩まれることもしばしばです。探題殿には、作歌とはすなわち懊悩にございまするな。ですから、今陶子殿は詞を捕えられずに苦しんでおられまするが、それはいわば、歌人として逃れることの出来ぬさだめであって、決して陶子殿の未熟を示すものではありません」
 と、陶子を励ましておいて、義弘は話を継いだ。

                 
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