1.はじめに 
 陶晴賢は戦国時代中期の武将で、周防の守護大名、大内家に仕えた重臣です。戦国史においてそれ程高い知名度を持つわけではありませんが、のちに「大寧寺の変」と称される内乱で主君大内義隆を自害に追い込み、そのために、戦国時代を象徴する「下剋上」の一例として、斉藤道三や尼子経久などとともに、名の挙がることの多い人です。
 この随筆は、その「大寧寺の変」の全容を、考察を軸に想像で補いつつ、まとめたものです。政変の発端となった大内家家中の対立から筆を起こし、出来事を時間に沿って追いながら、政変の翌々年、天文22年(1553)までを綴っています。

 歴史学上、大寧寺の変は家臣による「下剋上」「主家の乗っ取り」とされて来ました。しかし近年、家中の権力闘争に端を発した当主のすげ替え(主君押込)との解釈がなされており、私もそれが、この政変の本質を捉えていると考えています。
 主君押込とは、主君が家臣団の意向を無視、または利を損なうような振る舞いがあった場合、その主君を廃位し、新たな主君を擁立することです。クーデターの一形態であることに変わりはありませんが、家老など有力の家臣団の合議によってなされるところが特徴です。
 下剋上ではなく主君押込であったとしても、「大寧寺の変」という内乱の位置づけが180度変わるわけではありません。しかし、大寧寺の変前後の晴賢の行動にはある意味不可解な点が多く、そしてきちんとした考察が成されないまま、「主君を殺害するような人間だから、このようなこともするのではないか」といった、短絡的な解釈で済まされて来た感があります。記録に残った出来事を出来る限り整合させてみようというのが、今回の随筆の意図です。
 論拠に乏しい部分もあり、また一次資料を用いて書いたものではないため、見落とした事実もあることと思います。考察の矛盾や、筆者の不勉強を指摘していただけたら幸いです。
 なお、晴賢は、隆房→晴賢と改名しているのですが、紛らわしくなるのを避けるため、「晴賢」で統一することとしました。


2.出雲富田月山城の大敗
 天文14年(1545)4月、大内義隆は一つの掟書を出しました。
「殿中ならびに私の饌、近年殊に過麗に及ぶと云々。啻に先達ての法に背くのみならず、内には以て兵器の貯えを忘れ、外には以て撫民の謀を失う。自今以後に至っては、三汁、三菜に過ぐべからず。但し殿中の節日、または外人来客の時は、制の限りにあらざるの由、仰せによって壁書件の如し」
 要は、奢侈(ぜいたく)を慎み武を尊ぶべしという、いかにも武家らしい掟書です。しかしそこには、質実剛健の推奨というだけではない、もっと重要な意味がありました。
 大内家中では既に数年にも渡り、武断派の家臣団と文治派の家臣団との対立が、深刻さを増しつつ、続いていました。
 武断派は、主に大内家に古くから使えている譜代の武官が派閥を占めていました。率いるのは筆頭家老の陶晴賢です。陶家は元は大内家から分家した家柄で、その名が文書に見えるのは南北朝時代に遡るという、古くからの家臣でした。
 一方の文治派を率いたのは、義隆の祐筆を務める相良武任でした。武任は筑前の人で、その父、正任が書と連歌をもって大内
政弘 (義隆の祖父)に仕えたのが、家臣となった始めです。そして義隆が京より招いた有識者など、家臣となって比較的日の浅い文官が、主に与同者となっていました。
 両者の対立が深刻な形で露呈されたのは、天文11年(1542)に行われた、尼子氏の本拠、出雲の富田月山城攻めの軍議の席においてでした。
 前の年、尼子晴久は安芸吉田の郡山城に毛利元就を攻め、大内・毛利の連合軍に敗れていました。その敗戦を受け、尼子の領地である備後・石見・出雲の国人13名から、義隆が出雲に出陣してくれれば一同揃って参陣するという、恭順と、義隆の出陣を希望する書状が届いていました。
 武断派の晴賢は、尼子の内部が動揺している今こそが、出雲攻めの好機であると、即時の出兵を唱えました。しかしそこに、同じく評定衆であった相良武任が、今は軍事よりも内政を充実させるべきとの慎重論を唱え、晴賢に反対したのです。
 両者の意見は平行線をたどって折り合いがつかず、義隆は結局、折衷案をとって「漸進的出兵」と決めました。天文11年1月に山口を発し、3月に出雲に入りますが、自身の出した「漸進的出兵案」に忠実に、義隆はその年内は、出雲で戦らしい戦をほとんどしていません。各地の神社で戦勝祈願に時を費やし、ようやく翌天文12年(1543)の3月、局地的な戦いを開始しました。が、しかしその頃には、尼子側でも大内軍を迎え撃つ準備が万端に整っており、戦況は有利とは言えない状態になってしまっていました。加えて、一度は恭順した国人も、義隆の遅々とした進軍に業を煮やし、尼子寄りに方針を変えていました。4月、月山城の総攻めが行われたものの、味方であったはずの国人衆が次々と離反し、大内軍は大敗を喫します。敗北の原因は、晴賢が総攻めの時期を焦ったためという説もあります。
 多くの兵を失ったばかりか、随行していた義隆の嫡男、晴持(義隆の姉が、土佐一条家に嫁いで産んだ子。幼少の頃に義隆の養子になりました)を、撤退途中に水難で失うという悲劇にも見舞われ、尼子との戦は、大内家に深い傷だけを残しました。
 この、出雲出兵の失敗で武断派は面目を失い、これ以後武任と文治派は内政のみならず、武断派の管轄であるはずの軍事面でも、家中に発言力を強めて行きます。また義隆自身も、晴持を失った痛手からか軍事に距離を置き文治に傾倒するようになり、これも文治派の勢力を後押ししました。


3.武断派と文治派
 武断、または文治一辺倒の武家はありません。何処の家中にも、武断的性質の家臣と文治的性質の家臣が併存しているものですが、しかし大内家においては、武断派と文治派の対立が、家を根幹から揺るがしかねないほど、深刻なものとなって行きました。それには主に2つの要因があります。
 一つ目は、両派の性質の違いの問題です。前述したように、武断派は何代も前から大内家に仕えて来た家臣が中心で、文治派は義隆に登用された新参の家臣が中心です。そのような、他所から来た新参者を、義隆は時に譜代の家臣よりも重く用い、これは譜代衆の面目を傷つけるものでした。この二派の対立は、軍事重視・内政重視といった政に対する姿勢の違いにとどまらず、譜代の勢力と、外様の新興勢力の対立という様相を、同時に帯びていたのです。
 二つ目は、文治派というよりは、義隆の、文治的傾向に対する反発です。
 京風の町並みを作り、高水準の文化を招致し、周防の都山口に西の京を作り上げるとは、第24代当主大内弘世から代々受け継がれて来た事業でしたが、それは義隆の頃に頂点を極めました。戦乱で荒廃した京から、義隆は公家や高僧といった有識者を数多く招きました。書物その他の媒体を通して知識が簡単に手に入る現代とは違い、この当時は、芸術学問の摂取とはすなわち、高い文化を身につけた人に来てもらうということです。それら京からの文化人に、義隆は高禄をもって遇し、山口は義隆の下で文化的繁栄を極めました。
 しかし一方では、そうした招致のために莫大な金銭が蕩尽されたことも事実でした。義隆の京文化に対する愛好は一方ならぬものがあり、文化摂取には金銭を惜しみませんでした。「大内義隆記」によれば、例えば京の儒学者・清原宣賢が所蔵する「四書五経」の注釈書を書写するためだけに、青銅5万疋(500貫文)を贈ったといいます。500貫とは、現在の価値では2500万円もの大金です。また大徳寺の玉堂宗条を龍福寺の住持に招いた際も、500余貫を寺に寄進しています。
 これには勘合貿易で得て来た巨万の富が大いに役立ったのでしたが、しかし文化招致に、または朝廷への莫大な献金に(義隆の位階を上げるため)糸目もつけず費やされた結果、その富も目減りし、増税や臨時の労役といった形で、家臣団にしわ寄せが来るようになっていました。
 収入を増やす手っ取り早い手段は、戦によって周辺の領国を切り取ることです。実利的な理由に加え、重税への領民の不満をそらすためにも、家臣の間には戦が望まれましたが、文治派の強い発言力の下では難しいことでした。そして肝心の義隆もまた、この頃は軍事のみならず、領国の経営状態や、他国の状況といったことについてはほとんどかえりみることがなかったようです。重税と領民から上がる不満とに苦しみ、領地拡大の手段も断たれという状況で、義隆、武任と文治派に対する、家臣団の感情は、不満というよりはかなり切迫したものでした。

 大内家は代々文事の嗜みの深い家ですが、しかしその一方で、本領はあくまで武事とし、質実で倹素なあり方が尊ばれる家風でもありました。実際、過差(分不相応なぜいたく)を禁ずる壁書は歴代の当主が出しており、義隆も家督相続した当初に同様の掟書を出しています。
 この事実は、武断派にとって、巻き返しを図る上で格好の口実となりました。遂に天文14年、武断派は、出雲の敗戦は家中が文弱に偏ったためであるとの意見書を義隆に呑ませ、かつ、その責任を相良武任に求めることに成功しました。そうして出されるに至ったのが、第2項冒頭の掟書であり、これによって家臣団の対立は、武断派の勝利で一応の終結を見ました。そして掟書からひと月後、武断派の圧力で、武任は敗戦の引責として、大内家を出奔させられました。

                     
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