4.政変の密計
 武任の追放には成功しましたが、しかし晴賢は安穏とはしていられませんでした。とりあえず、家中は武断派優位となったものの、文治派が壊滅したわけではなく、奢侈による出費を抑え、領土拡大で収入を回復して、領国の経営状態を安定させるといった政策を武断派が行うには、まだ障害がありました。そして何より、義隆の寵は相変わらず武任にありました。事実、出奔直後から、義隆は武任の元に山口上洛を促す書状を送っており、いずれは政に復帰させるつもりであることは明白でした。
 武任が大内家を去ってからふた月、大きな出来事がありました。義隆の寵姫であったおさいの方が、男子を産んだのです。出雲で亡くした晴持が養子であったことからも察せられるように、義隆は生涯通じて子供には縁が薄く、39歳で生まれたこの子供が、ほとんど初めて授かった嫡男でした。
 ちなみにこの嫡男については、「義尊」という諱(※)だけが伝わっており、幼名は伝わっていないのですが、恐らく「亀童丸」だったと思われます。というのも、義隆―義興―政弘と三代遡って同じ幼名を持っており、大内氏研究の福尾猛市郎氏は、同一の幼名を世襲させることで、嫡子の地位を早くから明確にし、相続をめぐる争いを避ける狙いがあったと推測されています。「義隆」と「義尊」は一見して紛らわしく、福尾氏の言もふまえ、ここでは嫡男の「義尊」は「亀童丸」と呼ぶことにします。
(※諱……官途や幼名ではない、「実名」のこと。例えば「陶尾張守晴賢」の場合、「晴賢」が諱)
 嫡男亀童丸の誕生は、大内家と晴賢の運命を大きく動かすことになります。武断派の優位を揺るがぬものにするため、あれこれと手だてを考えていた晴賢は、一つの着想を得ます。
――御屋形様には隠居いただき、御世継様を当主に立ててはどうか。
 隠居させてしてしまえば、義隆の政治的影響力はないに等しくなります。それは義隆の寵を後ろ楯に発言力を強めて来た文治派が力を失うことを意味します。亀童丸はまだ幼いために当然、後見人が必要になりますが、この後見人を、筆頭家老である晴賢が務め、武断派による政を実現するというのが、晴賢が描いた青写真でした。
 これについては、安芸の吉川元春に宛てた書状が残っています。
「義隆某間の儀、更に赦免無く候の条、若子の事、取立つるべき心中候の由、杉、内藤と申談候。……」(義隆との関係は更に修復不可能となり、嫡子を擁立することを杉、内藤と話し合った)
 日付は大寧寺の変の約1年前、天文19年(1550)8月24日となっており、少なくともこの時点までは、晴賢側の計画が挙兵ではなかったことが窺えます。
 なお、亀童丸誕生当時、大内家には既に晴英(のちに当主として迎えられることになる晴英その人です)が養育されているのですが、晴英は、義隆に実子が生まれなかった場合に限り嫡男になる、猶子という立場であり、世継としての資格は弱く、晴賢の政変計画は、亀童丸誕生以前には遡らないと思われます。
 密かに、政変の計画は練られました。文治派もさることながら、それよりも義隆自身が、やすやすと隠居を承諾するとは思えません。激しく抵抗するであろう義隆を屈服させるだけの後ろ楯が、武断派側にはどうしても必要です。そこで考えられたのが、幕府と結びつくことでした。
 義隆の廃位、亀童丸の擁立、さらには秘密裏に幕府の承認を得るというこの計画は、事の重大さを考えると、晴賢一人の構想ではなかったでしょう。同じく家老職にある長老の内藤興盛や、杉重矩、その他有力家臣らと共謀して練り上げた案と思われます。義隆廃位も、もともと晴賢ではなく興盛か重矩、どちらかであった可能性もあります。
 ちなみに、家中の長老である内藤興盛を差し置いて、晴賢を亀童丸の後見人としたのは、晴賢の、筆頭家老という地位もさることながら、年齢的な兼ね合いであったと思います。亀童丸が生まれた天文14年の時点で、興盛は51歳、重矩は48歳、晴賢は25歳です。亀童丸が一人前に成長するまで、20年近くに渡って後見人を務めるには、若い晴賢が適任であったのです。


5.将軍への密使
 早速、将軍足利義晴の元へ密使が遣わされました。足利義晴は天文15年(1546)12月に、まだ11歳の嫡男義輝(この頃は義藤)に将軍職を譲っていることから、密使が送られたのは亀童丸が生まれた天文14年秋から、天文15年12月までの、一年余りの間ということになります。政敵にけどられぬうちに、政変の足固めをしてしまおうと、事を急いだ様子が見て取れます。
 大内家は、義隆の父、義興が永正5年(1508年)から10年に渡って幕府の管領代を勤め、また義隆自身も天文6年(1537)に将軍足利義晴から幕政への参与を打診されるなど(出雲尼子氏の南下が懸念される状況であったために実現しなかった)、幕府とのパイプを持っていました。晴賢が将軍と接触するのは、それ程困難ではなかったと思われます。
 謁見を許された使者は、義晴に、晴賢らが進めている計画を打ち明け、助力を頼みました。交渉にあたっては恐らく、将軍家に変事があった際には大内が兵を出して救援するというような条件が提示されたのでしょう。
 これは義晴にとっても悪くない話でした。将軍家の威光はこの頃には地に落ち、義晴は将軍の身でありながら、重臣の権力争いに振り回されて京を追われたり戻ったりを繰り返す有様でした。西国の大大名、大内家が味方についたならば、今足元を脅かしている、例えば細川家の重臣三好長慶なども破り、将軍の威光を取り戻すことも可能です。義晴の脳裏には、まさに大内義興に奉じられて入京し、将軍に返り咲いた先代義稙のことがよぎったかもしれません。
 義晴は晴賢と武断派の後ろ楯となることを承諾し、主従関係の証として晴賢は義晴より「晴」字を拝領しました。
 大名家で、当主が将軍の上字「義」を拝領し、下字を家中で最も有力の者(当主の弟や嫡男という場合が多い)が拝領するという形があります。例えば義隆と、出雲で死んだ晴持は共に、足利義晴から偏諱を受けた(名前の一字を拝領すること)ものです。また、大内家の第25代当主、義弘と、その弟満弘の場合も、足利義満からそれぞれ上字と下字を受けた諱でした。
 「義」字の拝領とは、すなわち将軍家の親族とみなすということですから、下字を拝領した者は、将軍が認めた名実共に国のトップと考えられると思います。幕府の御墨付をもって晴賢は義隆やその他文治派の家臣たちを力ずくでねじ伏せ、政変を断行しようとしたのです。また、そうして成立された亀童丸(義尊)―晴賢の新体制や、後見人としての自身の立場に正当性を与え、反発をかわす狙いもありました。
 亀童丸の「義」字の拝領の方は、晴賢が政変を考え出した頃には、世継としての地位や義隆の溺愛ぶりを考えれば既に決まっていたのではないかと思います。亀童丸は天文16年、3歳で、代々世子が世襲して来た周防介に叙任されており、この時に「義」字を受け「義尊」の諱を用いたものと思います。

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