6.蜷川家文書の記録
 実は晴賢の偏諱拝領に関する記述が、幕府側の史料に残っています。
 室町幕府で代々政所代を務めた蜷川家に残された、「蜷川家文書」と呼ばれる記録文書の、天文22年の項に、晴賢が将軍足利義輝に偏諱(名前の一字)拝領の礼物をしたとの記録が残っているのです。
 少し長くなりますが、下に書き出してみます。晴英の家督相続に関する事、大内重臣数名に「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」を許可する(※)との記述が続き、最後に晴賢のことが記されています。その部分は赤字で示してあります。
(※守護代の格式から、一段高い守護級の格式を認めるということ。守護代は「唐傘袋毛氈鞍覆及び塗輿」の使用が認められていたが、守護は「白傘袋毛氈鞍覆及び塗輿」の使用が認められた)

天文22年(1553)年 
1月 日 足利義輝、大内晴英へ「官途」を「左京大夫」に任じる。(「蜷川家文書」?-663)
1月 日 足利義輝、大内晴英へ偏諱「義之字」を下賜す(「蜷川家文書」?-664)
1月 日 足利義輝、大内氏「家督」を継承した大内晴英へ礼物を謝し、太刀1振を下賜(「蜷川家文書」?-665)
1月 日 足利義輝、大内晴英を「相伴」衆に召し加える(「蜷川家文書」?-666)
1月 日 足利義輝、間田英胤を「受領」の「備中守」に任じる(「蜷川家文書」?-667)
1月 日 足利義輝、陶持長へ「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」を「免」許す(「蜷川家文書」?-668)
1月 日 足利義輝、飯田興秀へ「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」を「免」許す(「蜷川家文書」?-669)
1月 日 足利義輝、杉重矩へ「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」の免許に対する礼物の「近将」の太刀・「白糸」の献上を賞す(「蜷川家文書」?-670)
1月 日 足利義輝、内藤興盛へ「白笠袋」・「毛氈」・「鞍覆」の免許に対する礼物の「行平」の太刀・「紅線」の献上を賞す。(「蜷川家文書」?‐671)
1月 日 足利義輝、陶晴賢へ偏諱「字」拝領の礼物に対して太刀を下賜する(「蜷川家文書」?‐672)

 「礼物」と「太刀の下賜」が、「晴賢」と「足利義輝」との間で行なわれているということは、すなわち偏諱の「字」は、将軍家から晴賢へ直接、下賜されたことを意味しています。
 拝領した字は具体的に何であったかは書かれていませんが、晴賢が生涯に用いた名は「隆房」と「晴賢」の二つで、このうち「隆房」の方は、主君義隆から偏諱を受けたとはっきり分かっています。そこから考えて、拝領したのは「晴」字としてかまわないでしょう。そして「晴」を下字に持った将軍とは、それは義輝の父「義晴」以外にはいません。
 本来ならば、陶家は将軍から見れば陪臣であり、偏諱は受けられないのが慣例ですが、義晴は大内家の勢力を借りるため、その慣例を曲げたのでしょう。
 義晴からの偏諱拝領であるとすると、天文15年あたりに記録がなく、7年後の22年になってから急に、義輝に礼物をしているのが気になりますが、恐らく、15年当時は、それが密約であったために、公の記録には何も残さなかったのだと思います。義晴にしてみれば、一応は晴賢についたものの、事態は今後どのように転ぶか分からないという懸念があります。近頃は学芸にばかり執心しているとは言え、若い頃は武略で聞こえた義隆です。一転反撃に出て晴賢を討つという可能性もないとは言えず、そしてそうなったとしたら、将軍自らが家臣の政変に加担していたという事実は、義晴自身を危うくするものだからでした。
 天文22年になって礼物云々の記録が登場するのは、政変が成就し、国内が落ち着いたのちに改めて、今度は正式な形で御礼がなされたということだと思われます。


7.「晴賢」という諱
 「晴賢」の名は、大寧寺の変のあと、新しい当主として豊後大友家から迎えた「晴英」(義隆の甥にあたる)から一字拝領して改名したものと解釈されています。忠誠の証に当主から偏諱を受けるという流れは自然ですが、しかし考えてみるとその解釈には二重に、不自然な点があります。
 家臣が主君から字を拝領する場合は下字(この場合は「晴英」の「英」字)を受けるのが慣例ですが、晴賢は見て分かるとおり上字を受けて改名しています。これについては、主君と上字を同じくすることで、自らが主君と同等であるという権力の顕示であるとの解釈がなされています。
 しかし、内乱を成功させたあと、晴賢は、自分が自害に追い込んだ義隆の葬儀を盛大に執り行い、また同時に剃髪し入道して見せるなど、先の挙兵は謀反ではなく、主家に対し叛意や野心は持っていないとの宣伝活動を様々に行いました。それは
 1.陶家含め、家臣団の地位・財産は大内家によって保証されていたため
 2.主君殺害という暴挙に対する反発をかわすため
 3.家中の動揺に乗じて、他国が侵攻するのを防ぐため
 4.領国各地に混乱が飛び火するのを防ぐため
などの理由が挙げられます。
 そのように考えると、自らの権力顕示のために主君の上字をわざわざ拝領したとの解釈は、矛盾した印象を受けます。先の「蜷川家文書」の記述と考え合わせても、将軍義晴からの一字拝領とするのが、つじつまが合うと思います。

8.政変計画の失敗
 しかしその後、何かしら計画実行をにおわせる動きを、晴賢らは見せていません。武断派の方に何の動きも見られないまま、天文17年(1548)8月、相良武任が義隆の要請で再出仕して来ます。それはつまり、武断派の工作が実を結ばなかったことを意味しています。
 この時計画が何故うまく運ばなかったかは、様々な憶測が出来ます。家中をまとめ切れなかったのかもしれず、文治派の勢力が予想以上に強かったのかもしれません。または肝心の三家老の結束が崩れて進まなくなったという想像も出来ます。――私は、この三番目の想像が、一番可能性が高いように思います。もっと言うと、杉重矩の離反が原因であったのではなかったかと思うのです。
 「相良武任申状」という文書が残っています。これは、天文19年に武任が二度目の出奔をした際に(詳細は後で述べます)、筑前守護代杉興運を通じて義隆に送った、家中対立についての弁明書です。この中で武任は、(武任が最初に出奔した)天文14年頃から、晴賢は数年に渡り家中の掌握をはかっており、晴賢の野心について、杉重矩が義隆に進言したが容れられなかった、と述べています。今言ったように、これは晴賢をいわば讒訴し、自らについて弁明するための書状で、内容をそっくり鵜呑みには出来ない部分もありますが、それでも当事者の言であり、重矩についての記述は気になるものがあります。
 実は、内藤興盛は、孫娘を晴賢に嫁がせてもいたし、仲は良好でしたが、重矩の方はそうではありませんでした。元々の不仲に加え、50歳近い高齢の重矩に対し、晴賢は血気盛んな年齢です。とかく計画を急ぐ晴賢のやり方に重矩が異を唱え、仲違いの末、離反、などということは十分考えられる事態です。
 そして重矩は義隆に、晴賢のことを何かしら讒言しました。(ただし、一字拝領のことなどはさすがに口を閉ざしていたとは思います)義隆はそれを容れ、晴賢への牽制のため、武任を再出仕させることを決めました。武任の言う、重矩の言が容れられなかったとは、義隆が積極的な策を講じなかったということではないかと思います。実際は重矩の讒言がきっかけとなって武任が呼び戻され、結果、晴賢の政変計画は一時凍結させざるを得なくなったのです。


9.再び動いた計画 ―毛利との同盟
 計画自体は中断されたものの、しかし先程の「武任申状」にあったように、家中に自らの与同者を募るための運動は、晴賢は水面下でずっと行っていました。そうして、晴賢にとって最も大きな収穫は、安芸の毛利の勧誘に成功したことでした。
 この当時守護代として弘中隆包が、安芸西条に派遣されていました。弘中隆包は毛利元就や嫡男の隆元と親交がありました。また、大寧寺の変後、安芸守護代の地位を返上して大内の麾下から晴賢の麾下となっており、このことから見て、晴賢の重要な与同者であったものと思われます。毛利は、この隆包が働きかけて、晴賢派に与同させたと見て間違いないでしょう。
 しかしほぼ同時に、義隆も毛利に工作を行っているのは、興味深いことです。天文17年(1548)秋、つまり武任を再出仕させた直後に、義隆は、内藤興盛の娘(のちの尾崎局)を毛利隆元に嫁がせ、婚姻関係を結んでいるのですが、その際、件の娘をわざわざ自分の養女とし、内藤ではなく大内と毛利の婚姻としているのです。義隆が毛利を如何に頼みにしていたかと共に、毛利が当時大内家中で無視できない勢力となっていた背景も、窺えます。
 また、義隆が内藤興盛の娘を養女としたのには、興盛との結びつきを強める狙いもあったものと思います。興盛は家中の長老でしたから、自らの与党に引き入れた場合、晴賢ら武断派の牽制力になり得ると考えたのです。この養子縁組を義隆はずいぶんと頼みとしていたらしく、最後まで、たとえ晴賢が事を起こしても、興盛は加担するまいと信じていました。
 しかし、義隆の工作も空しく、結局毛利は晴賢側につきました。翌天文18年2月、毛利元就・隆元・吉川元春・小早川隆景が、打ち揃って山口を訪れました。隆元の祝言のためです。姻戚同士になったとは言え、(そして隆元が人質として山口に滞在していた折、義隆が隆元を可愛がっていたとは言え)一家臣の婚儀を、わざわざ山口に招いて行うのは異例です。義隆としてはこの婚姻を最大限に利用し、毛利をしっかりと抱き込んでおこうというつもりであったのだと思いますが、実際は、元就の方はこの機会を捕らえて晴賢と密議をもっていました。毛利が与したことで、計画は再び現実味を帯びて動き出したものと思われます。天文18年冬には、杉重矩までもが再び晴賢に与しました。
 何故、重矩が義隆から離れたかについて「大内義隆記」は、重矩が将軍家から許可された「白笠袋」「鞍覆」に武任が異を唱えたために、下付されなかったことや、遺領相続に関することで、重矩が武任に恨みを抱いたためとしていますが、それは恐らく理由の一部でしかなく、大局が晴賢有利となったのを見て、再び結ぶことにしたのです。政変実行は間近いかと思われました。

                   2← 
目次 →4

 
 TOP  ESSAYS 

inserted by FC2 system