10.晴賢失脚 ―義隆襲撃事件とその真相
 晴賢の当初の目的は、義隆の隠居と、嫡男亀童丸の擁立のはずでした。しかし最終的に晴賢が選んだ道は、挙兵と、義隆の暗殺でした。何故に、計画は変更されたのでしょう。
 発端は、天文19年(1550)9月15日に起こった、義隆襲撃事件でした。第4項で触れた、吉川元春への、亀童丸擁立についての書状から、わずか20日後のことです。
 義隆は毎年、今八幡宮と仁壁神社の例祭に参拝する習慣でした。その年、例祭に向かう義隆と、義隆に供奉した武任の両名を、晴賢の兵が拉致し幽閉する計画があるとの噂が、義隆の耳に入ったのです。義隆は参拝を取りやめ、翌16日晴賢を呼び出し詰問しました。晴賢は無実を訴え、また内藤興盛・杉重矩も晴賢を弁護して、とりあえずその場は収まったものの、その日の夜、今度は逆に義隆の守備兵が陶屋敷を襲撃するという噂がたち、山口は一時騒然となりました。陶屋敷が襲撃されるという話は結局、ただの噂に過ぎなかったのですが、晴賢が屋敷で武備を固めたため、それが義隆の耳に入り、晴賢は再び、義隆の詰問を受けることになります。この時は、晴賢は、興隆寺修二月会の役を申し付けるため、家人を召し出しただけであると言って、その場を切り抜けました。
 ちなみに晴賢の言った興隆寺とは、大内家の氏寺です。毎年2月に修二月会、つまり法要が執り行われ、これは大内家の年中行事のうちで最も重要、かつ大規模なものでした。そして晴賢は、翌天文20年2月に行われる法要の、大頭役に選ばれていたのでした。
 襲撃事件自体は、これで一旦、不問となりました。しかし2ヵ月後の11月末、晴賢は急に隠居を願い出、領地である富田へと戻ることになります。表向きは自分から願い出たとなっていますが、そこに文治派の圧力があったことは想像に難くありません。もう一方の相良武任は、事件の真最中の9月16日、武断派の襲撃を恐れてとうに出奔しており、武断派を優位にするまいと、文治派が糾弾を強め、晴賢を失脚に追い込んだものと思われます。
 しかしそもそも、晴賢が参道で義隆を襲撃するなどという計画は本当にあったのでしょうか。
 私は、なかったと思います。義隆を幽閉しておいて、(恐らくそののちに)隠居を迫るという計画は、あまりに乱暴でずさんです。晴賢には幕府の後ろ楯という大きな武器があるのです。当然予想される家中の反発もかえりみずに武力に訴える、その理由がこの時点での晴賢にはないように思われます。
 屋敷の武備について詰問された際、晴賢は、興隆寺修二月会の役を申し付けるため家人を召し出したのだと言い逃れました。が、これは半ば事実だったのではないかと思います。事件が起こったのは9月半ば、現在の暦では10月半ばにあたり、ちょうど農閑期に入る頃です。半年後に迫った法要の仕度に取り掛かるべく、晴賢は、手の空いた家人を富田から山口に呼んだのでしょう。そして法要の規模を考えれば、その人数も多かったはずです。太刀や槍を携えた家人が数多く集まって、急に慌ただしくなった陶屋敷の様子を見て、山口の領民が事情を知らぬまま恐れて騒いだのが、義隆の襲撃という形になって伝わった(または誰かか意図的に謀反として伝えた)というのが、真相ではなかったでしょうか。


11.相良武任申状
 身の危険を感じて山口を出奔した相良武任は、筑前守護代杉興運の元に身を寄せ、義隆に申状をしたためました。これが前述した「相良武任申状」で、当主の襲撃未遂事件にまで発展した、家臣団の対立についての弁明と、晴賢の、家中掌握の野心についての暴露・糾弾という内容になっています。
 申状の日付は天文20年(1551)1月5日になっています。これを杉興運は日を置かずに義隆に届けたものと思われ、これが功を奏したのか、それまでは、武断派と晴賢に対し消極的な手しか打って来なかった義隆にも、積極的な働きかけが幾つか見られるようになります。申状を読んだ直後の1月27日、義隆は弘中隆包を安芸に遣わし、晴賢が事を起こした際には速やかに来援してくれるよう、毛利に要請しました。また、これは次項でもう一度述べますが、4月には武任を山口に呼び戻し、更に8月、姉の嫁ぎ先であり、陶家とは前々から遺恨のあった石見の吉見家にも、毛利と同様の要請をしています。
 しかし、義隆が、大内と自分自身を取り巻く状況にどの程度の危機感を抱いていたかは疑問です。吉見正頼に使者を送ったのは、挙兵直前の8月になってからで、手を打ったと言っても、後手にまわったという感が否めません。1月に、既に晴賢派に回っている毛利に、やはり晴賢派の弘中隆包を使者に立てているあたりにも、自分の身辺で誰が与党であるのかを全く掴んでいなかった様子が見て取れます。
 婚姻関係を結んでおり、現当主の隆元とも人質時代に非常に懇意であったということから、義隆は、毛利が晴賢につくとは想定していなかったようです。しかしそれは毛利だけではなく、晴賢についてすら、同じような甘さを、義隆は持っていたように思います。有名な話ですが、晴賢は少年の頃、義隆の寵童でした。それも、いわゆる伽小姓としてそばに置いたのではなく、少年の晴賢が住む富田まで、遠路を厭わず足繁く通ったようなのです。何故そうした形になったのかは分かりませんが、ともかく義隆にとって晴賢は一人特別な存在だったのでしょう。そして、その晴賢が自分に刃を向けるとは、どうしても実感を伴って考えられなかったという面があったのだと思います。こうした家同士の結びつき、個人間の心の結びつきを頼みとし過ぎたのが、義隆の判断を最後まで鈍らせた要因ではなかったでしょうか。


12.挙兵へ
 天文20年(1551)4月、義隆は相良武任を山口に呼び戻し、出仕させました。前述のように、これも対晴賢対策の一環でしたが、しかしこれこそが、「主君押込」から「挙兵」へと、武断派の感情を過激化させた直接の引き金でした。
 武任の復帰は、文治派と武断派の勢力図を塗り替えるだけではなく、武断派が押し進めて来た政変計画を完全に潰すものでした。晴賢が武任を憎悪したのと同様、武任もまた晴賢に悪感情を抱いています。晴賢の復帰は何としても阻止しようとするはずでした。
 確かに、内藤興盛、杉重矩のふたりはまだ政の中枢に残っています。しかし、後見人として幕府より直接の公認を受けているのは晴賢です。その晴賢が失脚し、しかも文治派が影響力を回復した状態で、政変を遂行するのは無理なことでした。
 計画がほぼ不可能となった時の武断派の失望は、想像に難くありません。第3項で述べたとおり、義隆や文治派への反感は、政治姿勢の違いといった理念的なもの以上に、むしろ自身の領国経営の逼迫に端を発していました。領国経営の回復が見込めないことへの失望や焦燥は、やがて強い憤りに変わりました。
 武任の復帰を機に、武断派は雪崩を打ったように「挙兵」計画へと突き進みます。翌月の5月には、豊後大友家に、晴英を新しい当主に擁立したいという旨の密使が送られており、この時点で挙兵はほぼ決まっていたのでしょう。これはつまり、山口に軍勢を侵攻させた場合、幼い亀童丸を救い出すことは不可能であるとして見殺しにし、代わりに晴英の擁立を決めたということです。 譜代衆を差し置いて外様を重用したこと、領国の状況もかえりみずに重税を重ねたこと、戦による領地拡大を阻止されたこと。数年に渡りくすぶっていた不満や反感が、一度に噴出した形でした。
 やがて大友家からは色よい返事が来て、いよいよ方針は定まりました。
 8月、義隆の方では、石見の吉見正頼に来援の使者を遣わしました。この時使者に立ったのは、武任でした。そのため幸か不幸か、晴賢らが攻め込んだ時武任は山口におらず、ほんの少しだけ、命をながらえることになります。


13.山口侵攻
 武任が石見へ向かうのと入れ違うように、天文20年8月20日、晴賢は富田から兵を挙げました。28日、軍勢は山口に侵攻しました。この時挙兵に加わったのは、陶・内藤・杉の、つまり三家老の軍勢だけで、他の有力家臣は誰も加わらなかったようです。恐らく、後々、この挙兵が主家に対する謀反ではないとの言い訳のためと思われます。(幕府には挙兵の前に工作しておいたかもしれませんが)
 屋敷を襲われた義隆は、数名の近習らと共に脱出し、吉見正頼を頼ろうと徒歩で長門仙崎へ向かいました。しかし船が逆風に遭って海路が使えず、自らの運命を悟った義隆は大寧寺に入り自害しました。9月1日。晴賢が兵を挙げてから10日、山口侵攻からはわずかに3日後のことでした。
 晴賢に擁立されるはずだった亀童丸は、大寧寺まで義隆に同行したのち、住職の異雪慶殊に伴われて寺を脱出しました。晴賢に命乞いするためであったのですが、9月2日、追手に捕らえられその場で斬られたようです。
 亀童丸の殺害については、最初から見つけ次第殺すつもりであったとも、殺すつもりはなかったのを、追手が早まったとも言われていますが、積極的に殺害するつもりもなかった代わり、積極的に助けるつもりもなかったというのが本当のところでしょう。晴賢にしてみれば、わずか6歳の亀童丸が義隆のもとを離れることはないと思い、何の指示も出さなかったのでしょう。
 生かしておいた場合、反体制勢力に奉じられるという危険は確かにありますが、幼い世継まで殺害したというイメージの悪さを考えれば、亀童丸がもしも晴賢の元に無事たどり着いていたら、晴賢は寺に入れるなどして、命を助けたであろうと思います。


                   3← 
目次 →5

 
 TOP  ESSAYS 

inserted by FC2 system