14.晴賢の宣伝活動
 無事山口の掌握には成功したものの、一連の騒乱によって大内家が倒れたとの印象を国内外に与えるのは、晴賢にはぜひ避けたいことでした。
 家臣たちの領地や、または領主としての地位は主家である大内家によって安堵、つまり保証されたものでした。つまり大内家が倒れ、支配体制が崩壊したとなると、家臣一人一人の、地位も財産も危うくなり、領国内にいたずらな混乱が広がる危険がありました。
 それでなくても、大内家の領国支配は、全盛期の義隆の時代になってもなお、必ずしも磐石とはいえない部分がありました。古くからの領国である周防・長門・豊前は支配が安定していたものの、石見・筑前などでは支配の浸透は不完全で、大内家の弱体化は、そうした領国に内紛を誘発する可能性がありました。勿論、そうした領国内の混乱に乗じた他国の侵攻も、懸念されることでした。
 大内家にすぐさま取って代わり、そうした内紛を抑えるだけの力を、晴賢が有していたならば別ですが、(勢力において主家を凌いでいたとの説もありますが)実際にはそこまでの力はなかったと思います。そして晴賢は、主君を倒して取って代わることは目的ではなく、挙兵はあくまでも、領国経営の建て直しの手段であったわけですから、領国内のいたずらな混乱は望ましいものであろうはずがなく、混乱を回避するためにも、大内家は磐石である必要がありました。
 晴賢は大寧寺の変の直後から、先の挙兵は謀反ではないこと、当主が変わっても大内家自体には何の動揺もないことを、精力的に宣伝しにかかります。義隆の盛大な葬儀を執り行い、また翌年晴英を周防に迎えるにあたっては、大内氏の祖、琳聖太子の故例に倣い、多々良浜に上陸させるという演出を行い、正当の後継であることをアピールしました。発行する書状等は全て義隆時代の形式を踏襲し、政においては、新当主晴英を立ててその下知を仰いで進めるという形を取りました。そして晴賢自身も、義隆への追悼と、主家及び新しい当主への忠心と恭順を示すため、剃髪し入道しました。(俗体を捨てるということは、私利私欲や野心を持っていないことと同意とされます)「晴賢」の名が書状に現れるのは、大寧寺の変の翌月からです。幕府の御墨付きを示すこの「晴賢」の名も、もちろん宣伝活動に役立ったことでしょう。


15.大寧寺の変の後
 相良武任はどうなったでしょうか。義隆の密使として石見へ向かった武任は、その後筑前に下り、そこで山口の変事を聞き知ります。武任は北九州の花屋城に籠もりますが、差し向けられた追手にたちまち城は落ち、武任は討たれました。大寧寺の変からひと月に満たないうちのことです。一方領国内では、結果としてすぐに収まったものの、晴賢の懸念どおり局地的な内紛が連続し、晴賢はしばらく戦後処理に忙殺されました。
 そして、翌天文21年(1552)1月、晴賢は突如、意見の対立から佐波郡大崎に蟄居していた、杉重矩に兵を向けました。重矩は知行地である長門厚狭郡万倉逃れたものの、討手に囲まれて自害しました。
 晴賢が何故、重矩を討ったかについては、今まで何度か触れている、「相良武任申状」が原因とされています。この申状には、晴賢の家中掌握の経緯を暴露すると共に、それについて重矩が義隆に讒言した旨が記されていたことは、既に紹介したとおりです。晴賢は山口に入ったのちこの申状を手に入れ、讒言を知って重矩に恨みを抱き、かつ、義隆や下向していた多数の公家衆までもを殺害した自身の軽挙を悔やんで、責任を転嫁する形で重矩を討ったというのです。
 しかし、晴賢が重矩の讒言を恨んだのはあり得るとしても、ずっと以前から、家中では「貴族主義」とも言うべき義隆の政治に不満が高まっていたことを考えると、公家衆の殺害を悔やんで重矩を討ったというのは少し違和感を感じます。むしろ、申状の一件は重矩殺害の遠因であり、直接には、晴賢にとって重矩の存在が邪魔になったのだと、ごく単純な解釈の方がより真実に近いのではないかと、私には思われます。
 重矩が新体制に対しどのような理念、見通しを持っていたかは分かりませんが、やはり晴賢とは相容れなかったのでしょう。しかし重矩は家中の年寄であり、その発言は恐らく晴賢と言えども軽んずることは出来ない。自分の思い通りに改革を押し進めたい晴賢には、重矩はいわば第二の相良武任となったのです。そうした政治的な理由を、長年の不仲、前述の申状の件といった感情的な理由が後押しした結果、重矩殺害という行動に結びついたのでしょう。
 天文21年(1552)2月、晴英は周防に入りました。既に述べたとおり、大内氏の祖、琳聖太子に倣って多々良浜に船をつけた晴英を、晴賢ら重臣たちは打ち揃い、麗々しく迎えました。上陸の日にちも、太子に合わせて3月1日を選んだとの説もありますが、2月中に屋形入りしたとの記録が残っており、そこまでは徹底しなかったようです。
 晴英は、公式には幕府の下知に従って家督を相続するという形になります。屋形入りを待ち、家督相続に伴う幾つかの手続きや贈物の献上に、早速使者が将軍の元に遣わされました。その際、「白笠袋」「毛氈」「鞍覆」の許可願い、晴賢から一字拝領の正式な礼物も、一緒に行われました。
 そうして、明けて天文22年(1553)、恐らく年賀に遣わされて来た大内の使者に対し、晴英の「義」字拝領、「白笠袋」その他の許可、晴賢の礼物への返礼といった一連のやり取りが行われ、それは「蜷川家文書」に正式に書き残されたのです。


参考資料
■国史大辞典(吉川弘文館)
伊勢氏 / 大内義隆 / 蜷川家文書 / 蜷川氏 / 蜷川親俊日記
■福尾猛市郎「大内義隆」(吉川弘文館)
■海音寺潮五郎「悪人列伝」(文春文庫)
天下統一期年譜・1534(天文3)〜67(永禄10)年
「蜷川家文書」の記述含む。日本史資料のデーターベースを作成しているHousehold Industriesのページより。
■多々良大内氏の野望(9)
「吉川家文書」についての記述。
九州発・YOMIURI ONLINE「こだわり歴史考」(2004年10月30日付) (←現在は読めなくなっています)
■Wikipedia
下克上 / 主君押込 / 守護代

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