あとがき

 ある夜、眠り浅い中に、夢を見ました。秋の陽が注ぐ谷奥に細流が音もなく流れ、そのほとりに一面、もみじが赤く群生しているのです。ストーリー性も何もない、ただそれだけの夢でしたが、束の間目の前に映じたもみじの紅の色が印象的で、そのまま目覚めてしまいました。夢を思い返すうち、ふと、鮮やかな紅もみじに染まる谷奥の光景は晴賢のイメージにいかにもよく合っているように思われました。紅蓮のもみじと、谷奥の静寂と、その中に佇む晴賢と、その印象に引っ張られるまま、ほとんどその場で筋が出来上がりました。
 「陰徳太平記」等においては、晴賢は本陣を逃れた後、海岸沿いに舟を捜し、しかし見つからずにやむを得ず山中に分け入り、島の反対側に位置する青海苔浦まで逃れそこで自刃したとなっていますが、この作品では晴賢はすぐに先峠方面の山中へ入り、尾根づたいに大江浦の方へ逃れたのち、谷で自刃します。これはリンクのページでも紹介している福原元澄氏のサイト「安芸・毛利一族」の厳島合戦の項を参考にしたものです。福原氏は、合戦当時厳島神社の神主であった棚守房顕の書き残した「棚守房顕覚書」を始め、吉川家の老臣が残した「二宮佐渡覚書」「森脇飛騨覚書」等の丁寧な検証の元、厳島合戦についての興味深い考察を展開しておられます。
 それによると、毛利方の軍勢が攻め込んだ際、晴賢は交戦することなく大元浦から山中に退いています。これは、一般に語られているように陶軍の本隊が統御不能の混乱に陥っていたのではなく、むしろ島からの脱出を考えた兵力温存の策であったと福原氏は述べております。また撤退経路に関しても、見晴らしの良い海岸に出てしまうと敵に発見された場合に逃げ場がないため、尾根づたいに島を縦断し、対岸に最も近い大江浦で舟を捜すのが当初からの計画であったのではないかとも推測されており、作品を書くにあたってはこれらの考察を使わせていただきました。
 最後に、漁民の娘が海中から紅珊瑚を拾いますが、これは晴賢の血が珊瑚に変じたということです。発見された晴賢の頸は安芸廿日市の洞雲寺に運ばれ、首実検のあと、寺の裏山に埋められたといいます。晴賢の屍はその髪一本すらも周防に帰ることなく、そのまま五百年という時が流れているのです。その悲しさを思い、筆者は晴賢の流した血を一かけらの珊瑚に結晶させて、周防の浜へ届けたいと思ったのです。


参考資料
■永原慶二「日本の歴史14 戦国の動乱」 小学館
■杉山博「日本の歴史11 戦国大名」 中央公論社
■泰山哲之「日本歴史の旅(下)」 現代教養文庫
■海音寺潮五郎「悪人列伝 近世篇」 文春文庫
厳島合戦の真実〜神主の証言
元就 VS 晴賢 厳島合戦の跡を訪ねて
福原元澄氏のサイト「
安芸・毛利一族」より。
宮島観光公式サイト
社団法人宮島観光協会


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