紅 珊 瑚

 厳島にて毛利元就に敗れた陶晴賢は、塔の岡の陣を捨て、厳島神社西方の山中へ退路を開かんと逃れた。山崎勘解由、伊香賀隆正、三浦房清、宮川市允ら数名の近習とわずかな兵を引き連れ、塔の岡の程近く、大元浦に注ぐ谷川をつたって山上の先峠へと出ると、島から脱出する舟を捜すため物見はすぐさま谷川を下り四方の浜へと駆けた。未だ早朝のことで島の山も谷も白い朝霧が流れ、身をひそめるには都合が良かった。地に突いた太刀の柄頭に肘をもたせて峠道に佇む晴賢の周囲には、ようやく顔を覗かせた朝日が、きらめく幾本もの筋となって、木の間(このま)より斜交いに射し込んだ。霧の下を潜るように走った物見はやがて次々と戻ったが、いずれも無駄足であった。西の浜には味方の大内水軍の船が停泊しているはずだったが、それらは皆毛利に与した村上水軍の手で沈み、そして漁民の小舟なども浜には見つからなかった。
 こうするうちにも毛利軍の追手は山中に迫ることが懸念された。未だ戻っていない物見もあったが、三浦房清は、これ以上時を置かず大江浦の方へ向かうようにと進言した。大江浦は島の南西の端に位置した浦浜で、敵の上陸地点からは隔たり、一方安芸本土の対岸とは距離が短い。おまけに海岸線の途中には下室浦の浜が海に向かって膨らんでいるために敵軍からは死角となっており、舟さえ見つかるならば脱出経路としては申し分ない場所であった。晴賢は房清の進言を容れた。一行はすぐに峠を後にした。三浦房清唯ひとりは、追手が迫った際にはその足を止め、時を稼ぐために、二十人ばかりの兵と共に峠に残った。
 晴賢らは尾根筋をつたい大江浦へと急いだ。いつしか霧はすっかり晴れ、秋の日射しが高くなりつつある中、喬木の細い影は濃さを増し、両脇から鋭く迫るようであった。峠を越え、谷に下りると潅木やシダ類の藪はおのずから深くなった。昨夜の嵐が残した露が、藪を掻き分ける度散らばっては鎧に染み込み、ただでさえ進み難い歩みを殊更に重くした。幾度か迂回しつつ谷を半ばも下ったところで、彼らは先に大江浦へと出してやった物見と合流した。汗にまみれ息せき切って谷を上って来たその兵はしかし首を振り、大江浦の周辺にもやはり舟の見あたらなかったことを告げた。
 残された退路は今来た道を再び尾根へと引き返し、高安が原から、島の反対側の青海苔浦の浜へ逃れることであった。が、山上へ物見を出したところ、先峠からの尾根筋は既に毛利の手に抑えられており、三浦房清らも悉く討ち死にした模様だということであった。谷から出ることも叶わず、三浦勢も討たれて追手を防ぐものもなくなり、ここに及んで晴賢は自身に残された道はもはや自害より他になくなったと悟った。皆はそんな晴賢を諫止し、山中や漁民の小屋などに身をひそめ、敵の油断を突いて島から脱出するようにとすすめたが、晴賢は、そうしておいてもし敵の手に捕らえられてはいたずらに生き恥を晒すことになると、皆のすすめを頑として退けた。
 残った兵ともここで別れ、晴賢は数名の近習と共に谷筋を外れ、喬木が小高い頭上に黒々とした影を繁茂させる山中へと入って行った。足元には相変わらず下草が覆い、葉の表にたまった露は、藪をこいで行く者達の身体を濡らし続けた。林の奥へ進むと、しかしその下草も徐々に引いた。囲む木々の背も低くなり、梢の影もまばらになって、辺りは次第に明るくなったが、それにつれ、歩を進める彼らの上には、振り払っても払いきれぬ深い静寂がしんしんと降りた。そのまま四半刻も歩いたのち、彼らは木立の間を流れる渓流のほとりに出た。それは先程下った、大江浦に注ぐ谷川の、枝川と思われた。涼しげな音を立てる細い渓流の周囲は、もみじ谷とでも呼び表したい程に、山もみじが一面に群生していた。木々は華奢な指をなめらかに広げて悉く色づき、頭上も、足元も、見渡す限りの一帯を紅蓮の色に染め上げていた。
 水辺に突き出た平たい岩を見つけ、晴賢は腰を下ろした。散り敷く朱を踏みしだいて皆もめいめいに座り込んだ。毛利の奇襲によって戦いの明けたのは、未だ霧の深い早朝であったが、今は日も既に天頂に近い。ほとんど休むこともなく山中を歩きつめてきたどの顔にも、疲労が色濃かった。
「水はないか」
 誰かが腰の竹筒を差し出した。晴賢は喉を鳴らして飲み、それから兜の緒を解くと顔中に吹き出た汗を袖口で拭った。秋空を埋める紅の葉叢の隙間から陽光がこぼれ、額に落ちた。冷たいばかりに澄みきった木洩れ日は、黙然と座り込む者達の身体や、もみじ葉を緋に敷きつめた地面の上に、不規則な明るい斑紋を描いた。時折梢から、滴るように朱が散り落ちた。日だまりの中に舞い込んでは赤々と照り映え、そこだけ、ひとときの小さな焔が燃え立つように思われた。晴賢は兜を脇に置き、形の定まらぬ陽光の、足元の地面にかすかに震えてたわむれる様(さま)にぼんやりと視線を落としている風であったが、ふと、顔を上げた。
「――あれは、駒が林か」
 晴賢の声に皆も顔を振り上げた。遥かな遠くから、谷を閉ざすしじまを破って確かに一瞬、鬨の声のような音が耳に届いたのだった。先峠の尾根と弥山の峰との間にそびえる駒が林の岩棚には弘中三河守隆兼が、敵を陽動し晴賢を逃すため、手勢二百と共に死兵となって立て籠もっているはずだった。五年前晴賢は、政に倦んで国をかえりみなくなった主大内義隆のすげ替えを叫び、謀反の兵を挙げた。大内の重臣であった隆兼はその時晴賢に与同して麾下となり、以来、そばに侍して常に晴賢を補佐して来たのだった。顎を上げた視線の先に、見えるはずのない駒が林の断崖を追う晴賢のおもてに、何かの感情が、雲の流れるようにちらりと兆した。
 皆は耳をそばだてたが、しかしその鬨の声は、本当に駒が林から届いた戦いの音であったのか、それともただ心身の困憊がもたらした空音であったのか判断のつかぬままにたちまち虚空へと消え、あとには再び、渓流のせせらぎが引き寄せる果てもない静寂が残された。鳥も獣も、このもみじの染める谷奥には寄りつかないのであろうか、鳥の声も、また尾根を渡っていたうちにはしばしば聞こえていた鹿の甲高い鳴き音も、ここには響かなかった。静寂だけが、彼らを取り巻いていた。静寂はまるで薄い膜となってひとりひとりの肌身に絡みつくかのようで、今にもその手ざわりすら、感じられそうな程であった。山を美しく染めるもみじ葉も、鮮やかに突き抜ける晴天も、華やかにしぶく川音も、静寂を退けることは出来なかった。そうやって静けさの膜に包まれていると、つい半日前に刃と血しぶきの中に身を置いていたことが、そればかりか今までの人生の悉くが、ともすれば一炊の夢であったかのように感じられた。我が身を、人の世から冥途へと押し流しつつある寂寞を破って、刹那の間耳に届いた鬨の声は、ここに居る者らがかつては生者の世にいたのだという、あたかもそのわずかな証しであるように思われた。
 惜別の宴を開こうと言って、晴賢は竹筒に谷川の清水を汲ませた。山崎勘解由が懐に盃を持っていた。晴賢が清水を満たした盃を唇に運んだ時、黒漆の底に金泥で秋草を描いた盃のおもてに、はらりと、もみじ葉のひとひらが丹を削ぎ落として舞い込んだ。鋭い先端までくまなく紅をみなぎらせた葉のふちを、光の金糸が細かく乱れながら縫い取った。思わず手を止めてその姿に見入り、それから晴賢は静かに傍えの細流を振り返った。流れる水は木の間から注ぐ空の色を映し、照り返す光はそのへりもなめらかに、水銀を流したような銀色がおもてをたゆたうて行く。そして銀のみなもに、朱は滴って三三五五、寄り添い、かつ離れ、愉しげに揺れつつ流れ去る。晴賢はしばしじっと見つめていた。
「谷は大野の瀬戸に注ぐ。潮に運ばれ、周防の何処かの浜に流れ着くものもあるのだろうか」
 誰に言うともなく、つぶやいた。水盃を干して、晴賢は近習のひとりひとりに自ら盃をついだ。
「五衰滅色の秋なれや、落つる木の葉の盃、飲むは谷水の、流るるもまた涙川、水上はわれなるものを、もの思う時しもは、今こそ限りなりけれ」
 山崎勘解由は盃を一息にあおると、朗々と声を震わせ謡った。
 やがて晴賢は岩陰に腹をくつろげ、宮川市允がその頸を落とした。晴賢のめのとごとして終生そばに仕えて来た伊香賀隆正は、転がった頸を両手に抱えあげ、清流の水に浸して血を洗った。血は束の間谷を染め、しかし水の流れはすぐに朱の彩りを下流へと運び去った。隆正は自分の着ていた袷の布に頸をしっかりと包み、そこから少し上流へ入った苔の下に隠した。隆正が戻るのを待ち、残った者達も皆めいめいに刺し違えた。散り止まぬもみじが、折り重なった屍の血を覆った。

時が流れ、周防のとある浦里でひとりの若い娘が貝を漁ろうと海に潜っていた。海は見渡す限りに穏やかであった。そしてかつてこの村をも焼いた戦火の記憶は、その後に訪れた平らかな日々の中に忘れられつつあった。うら若いこの娘にとっても、大内と毛利のいくさなどは、周防大内家の滅びたことも含めて、既にまるで遠い国の出来事でしかなかった。着物の裾をひるがえして潜るうちに、娘は、青い水底に何か赤く光るものを見つけた。指先に拾い上げてみなもに上がってみると、それは磨かれた、親指の先ほどの血赤珊瑚のかけらであった。黒い瞳を輝かせて、娘は珊瑚に唇を触れた。そして革紐を通して首にかけた。紅珊瑚は娘の肌に赤々とつやめいて揺れた。周防灘の碧い潮に洗われた、真白な肌の上に。


―了―
                    
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