春 の 一 夜

 物音ひとつなく静まった自室に、毛利隆元はふと、それまで一心に絵筆を動かしていた手を止め、顔を上げた。そろそろ手元に光の乏しくなったように思ったのである。見れば立て切った障子の色もいつしかくすんでいる。もう暮れ刻かと隆元は立ち上がった。家人に灯火を命じようと、障子を開け庭に面した廊下に出た。が、出てみると、彼の部屋の周りがちょうど日陰に入っただけで、戸外は思いのほか、明るかった。眼前の庭は青いような、透明な明るさが水のように満ちて、陽光は入らなくとも、春浅い枝先にわずかに萌える、未だ翡翠色にもなれずに赤く縮れたままの若芽の色さえはっきりと見ることが出来た。木々の梢や廂に囲われた空も、雲を切れ切れに流しながらまだ充分に青い。日が長くなったと、隆元はつくづくと思った。ほんの十日も前は、この刻限ともなれば外はほとんど真っ暗に近かったように思う。刻々と過ぎ去っていく日々に焦りを抑えられずにいる隆元の心である。しかし実際の時は、その焦る心よりもずっと早く過ぎているのだと、改めてそう思い、彼は底なしの沼に沈むような息苦しさを感じずにはいられなかった。
「御用でございましょうか」
 障子の開いた音を聞きつけてやって来た家人が、廊下の角に姿を現した。何でもない、と隆元は手を振りかけたが、もう四半刻もすればどのみち灯を運ばせねばならぬのだと思い返し、部屋に灯を点けておくようにと命じた。家人が灯明を携えて再び廊下に姿を現し、部屋に明かりを灯して下がるのを待つ間、隆元は縁先に歩み出て庭を眺めた。四坪に少し満たない小振りの内庭だが、狭い中にも木を植え込み、石組みなども据えて庭らしく整えてある。梅から花の盛りを引き継いだ木蓮がある。根方を囲んだ二、三の石と黄楊の丸い植え込みの上に、厚い花弁がもうしっとりと落ちている。石組みは新芽をちらちらと仄めかせる数本の夏椿を負って庭の左隅を領している。濡れ縁に間近い一隅には自然石を刳り貫いた手水さえある。水のおもてに、紙を張ったように空が鮮やかに映っている。それらはまぶしい光や濃い影から解かれたせいで、却って、刻み込んだような鋭い輪郭と、柔らかい陰影とを隆元の前に現していた。咄嗟に美しいと思い、隆元は感嘆の吐息を長く洩らしたが、こうして山口の夕暮れを眺めるのもあとわずかだという思いもまた同時に胸に迫り、それが吐息をつい、湿っぽいものにした。
 今年の夏か、遅くとも秋には、隆元は故郷の安芸郡山へ帰還を許されることになっていた。主家、大内家での三年を越す人質暮らしも終わりに近いのである。しかし人質とは言うものの、山口での隆元は、学問に没頭し、大内の家臣団と親交を深め、むしろ留学生として招かれたかのような日々であった。実家の毛利家は、安芸における大内勢力の、いわば重要拠点であり、その嫡男であるがゆえに手厚く遇されたということもある。がそれ以上に、主君大内義隆が隆元を可愛がってくれたことが大きかった。隆元が、儒学を始め、禅学、書画、歌道、あらゆる学問に親しむことが出来たのも、代々の向学の風と大陸貿易で得た巨利とによって大内家に集められた、当代随一の書物、識者の下で学問を充実させることが出来たのも、全く義隆の厚意に負うものであった。
 家人が下がり、隆元が部屋に戻ると、部屋は彼自身の命じた灯火に静かに照らされていた。違い棚や床の間に角を重ねて積み上げられた書物や、床の間の中央に据えられながらも両脇の書物に圧迫されがちの銅の花入れ、背後の壁に掛かった観世音菩薩の軸――それは隆元が郡山を発つ際に、父元就が手ずから渡してくれたものだった――それらに火影が赤く射し、一つ一つの周囲に、隈取る黒い影を作っていた。見慣れたはずの部屋と、自身の心との間に、急に心細い隔たりを感じながら、彼は元のように床に座った。画用紙と、傍らに絵の具に汚れた絵皿と筆がある。灯明はそれらの右手に置かれてあった。描く際に手の影が絵を遮るのを嫌って、彼は手を伸ばし灯明を左側に置き直した。
 山口滞在中、隆元が最も熱心に取り組んだのは画学であった。絵を描くという精神活動に、彼は山口に来て初めて触れた。生まれて初めての経験に若い心は鋭敏に反応し、彼はたちまち絵に魅了されたのだったが、しかし隆元の精神がいつしか激し過ぎるばかりに画学に傾いて行ったのは、ただ体験の新鮮さに依るものばかりではなかった。隆元には幼い頃より、密かに絵心があった。勿論実際に描いたことはなかったが、しかし感性は体の奥に間違いなく孕まれていた。うっそうたる木々の間を霧が流れ、露が幹を黒く伝う時、幼い心には悲しみが満ちた。何が悲しいのか、彼にも分からなかった。分からぬまま、霧に白く閉ざされた梢を蹴って鳥が飛び立ち、胸を破る鳴き声を残して一直線に舞い上がって行くのを、悲哀とも、歓喜ともつかぬ高ぶりと共に見送るより他なかった。このように、色彩も形も判然としない、ただその中に時折激しく稲光の閃く雲のような心を抱いて、隆元は成長した。絵とは、その雲の中にイザナギとイザナミの手によって下ろされた矛であった。紙の上に線と彩りとをもって事物を明確な形に表すという行為は、彼の混沌とした精神の中から感性の部分を濾し取り、それをまさに島のように一個の形に凝結させたのだった。隆元は長年己を、半ば苛んで来た感情の正体を知った。それと同時に、彼の心は、のみならず彼を取り巻く世界もまた、彼の目の前に水を覗き込んだように明らかな姿を現し出した。「生れ落ちてから今まで、私は盲(めしい)たままであった」その時の感動を、隆元はこのような言葉で幾度となく噛みしめた。「だが絵を学んで初めて、両の目が開いた。こんにちに至ってようやく本当に生まれたに等しいのだ」以来、己の内から美を掬い上げ、紙に筆をもってひとつの形ある姿に結実させる作業に、彼はどれ程心を傾けたことだろう。時には寝食も捨て、ただ一心に、魂を蕩尽するように、創作に傾倒した。人生の傍らに絵のあることは、隆元にとって幸福そのものであった。
 けれども、今、床に座り自身の描きかけた絵を見つめる隆元の目には、芸術への陶酔もなければ創作の幸福もなく、曇った憂いばかりがそのおもてを覆っていた。あと幾月かののちには故郷へ帰らねばならない、それは画学を断念することを意味していた。父が、息子の画学修行も、ひいては絵そのものすらも快く思っていないことを、隆元は知っていた。「歌や連歌の芸などもののふには不要、本分たる弓馬の道があればよい」それが父の理念であった。かく言う父とても、師に就いて連歌を学んだこともあれば、蹴鞠など遊芸の稽古に励んだこともあるのである。が、父に言わせればそれらは悉く、人との交わりにおいて必要となるために已むなく嗜んだだけのことであった。芸事は不都合がない程に上達したならばそれで良い、必要を越えて関わるべきではないのだと、そこまで割り切っている父であったから、隆元のように一つの芸道に血を滲ませんばかりに打ち込むというのは、しかもそれが社交にはほとんど役立たない画学であるに至っては、愚行を越えて非道の極みであった。事実、画学を始めたばかりの頃、絵を描く面白さを手紙にしたため父に送ったところが、折り返し届けられた返事には、国を治め家を治めるという、家臣の本分を全うするための勉学を忘れることがゆめゆめあってはならない。画学もよいがほどほどにするようにとあった。「ほどほどに」とはあくまでも父の言語であって、一般の言葉に置き換えるならば、それは「厳禁」の意であった。
 絵を棄てるということは、隆元にとって、自身の中に芽生えた感性を摘み取ってしまうことに他ならなかった。彼は自身の感性の脆弱なことを知っていた。ほんのわずかの心持ちの変化や身体の疲労や、そんなものにしばしば彼の精神は影響されがちであった。心がその透明さ、鋭敏さを鈍らせ、絵筆の全く運ばなくなる度に、彼は、雲の輝きや葉叢の囁きの内に感じた、胸を責められるような感性の高揚が、これきり自分の中に戻らぬのではないかという恐怖に、いつも密かに怯えた。自分自身のことでありながら、彼はそういった心の動きが何処から来るのか分からなかった。そのためそれを守る術を、彼は何ら持ち得なかった。更に、彼の感性は唯絵をもってのみ、彼の存在とつながっていた。例えば連歌も、能も、彼の心は動かしても、彼の感性までは揺さぶってくれなかった。それ故に、画学を諦め絵を棄てるならば、感性は身体の内から今度こそ永遠に消え去って、二度と取り戻すことは出来ないであろうと、彼はそう考えざるを得なかった。

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