美への憧憬は、たとえはっきりした認識はなかったとしても、生れ落ちた時から変わらずに彼と共にあった。芸術への思いは毛利隆元という人間そのものですらあるのに、それが外からの圧力で無理無体に奪われようとしていることに、隆元は耐え難い恐怖すら覚えるのだった。それは自分自身と信じて疑わなかった肉体を剥がれ、まるで見知らぬ他人の身体に魂を押し込められるようなものであった。元のようには決して馴染まぬ肉体と何とか折り合いをつけ、騙しながら、あと何十年続くか分からぬ余生を生きて行く。新たに与えられる身体の見る世界は、かつて自分が見ていたような、濁った、寂莫たる世界であるに違いない。そんなことを思い、隆元の眉には沈痛の色がよぎった。取り巻く世界は今も彼の眼前に、形も色も全てが匂うようであった。彼は自身の感性によって捉えた世界を愛していた。この、滴るばかりの鮮やかさを、酔うばかりの馨しさを、以前のような泥の混沌に戻すと言うのであれば、それは盲人の、ひとたび開眼したまなこを再びつぶすに等しい残酷であった。
 しかしそのように嘆きながらも、隆元の心は同時に、苦労人である父の方へ思いを向けずにはいられなかった。今でこそ、大内家中において厚遇を受く立場となったとは言え、元々毛利は安芸の一地方を治める小豪族に過ぎなかった。大内、尼子、細川ら四方を囲んだ勢力の争いに常に板挟みとなり、翻弄されてどのような辛酸を毛利家が舐めねばならなかったか、そして領地を広げ勢力を強固なものにせんと、父がどれ程の苦労と犠牲を払って来たか、幼い頃より幾度となく繰り返し聞かされてきた隆元はよく知っていた。「もののふには歌も連歌も要らぬ」と言う件の言葉も、父が両手を血に浸しながら重ねて来た艱難辛苦そのものが発した生々しい言葉なのだと思うと、未だ安定したとはいい難い安芸の内情も顧みず、画学を続けたいとくよくよ思い悩んでばかりいる己の姿が如何にも情けなく、身勝手であるように思われてならなかった。画学への情熱も、美への憧憬も、そのようなものが何の役に立とう。子は親に孝を尽くさねばならぬ、そして自分は嫡男である。己の肉体も魂も投げ捨て、唯父を助け家を治めることのみのために生きるのが、人の道ではないのか……。悩み出すと隆元の思考は、このように極端から極端に振り子のように行きつ戻りつするばかりで前に進まず、彼の心身をいたずらに疲弊させるのだった。
 父元就が声高に唱える「もののふの本分」とはつまり、人が暮らすことと密接に結んだ実利であった。翻って隆元の手にある芸術とは、人の暮らしとも生命とすらも、全く解離したものであった。実利と芸術がぶつかり合えば、敗北するのは常に芸術である。のみならず、美を愛するものは、芸術という、人々の生に役立たぬものに魂を傾ける己自身を、常に後ろめたく思わずにはいられない。そして隆元もまた、この後ろめたさゆえに、画学を続けさせてくれるよう父に懇願するという、最も単純で現実的と思われる解決策は、決して脳裏に浮かべることは出来なかった。
 隆元は視線を落とした。床に描きかけの絵が、打ち捨てられたように灯明に照らされている。絵は雪の枝にとまった鷹の図であった。鷹は黒い背をこちらへ見せ、肩越しに首だけを左方へ向けていたが、その顔の辺りは輪郭ばかりを描いたきり、白く抜いたようにまだほとんど色がつけられていなかった。彼方を力強く見据えるはずの鷹の目が、幾度描いてみても弱々しく、まるで憂いを含んだような様に仕上がってしまい、隆元はどうしても気に入らなかった。あたかも己の優柔な心中が紙の上に知らず映じているように思われてならず、ここ数日の間、彼はこの絵を何度となく破り捨てては描き直していた。眺めながら彼は苦いため息を洩らした。どうせやめねばならぬのだ、この一枚を仕上げようが、仕上げまいが、それが一体何であろう。ともすれば投げやりな心持ちに駆られつつも、しかし尾羽のつややかに伸びた様、なめらかなのどを覆う和毛(にこげ)などの、こう描きたいと思ったその通りに描けた箇所を見やれば、やはり作品への思いは絶ち難い。しばらくためらったのち、彼はようやく、ある種の勇気を奮い起こし、絵筆を取り上げて再び、紙の上に動かし出した。少し残していた足の羽毛を描き終え、彼は鷹の頭部に取り掛かった。一筆、一筆を慎重に運ぶ。時には出来を確かめるように、筆を止め顔を上げてじっと絵を見直したが、その視線には不安の色がしばしばよぎった。これもまた破り捨てることになるかもしれないという懸念が筆先を脅かすのである。描き直すことなど、本来ならばなんでもないはずだった。が、幾度もの失敗のせいで、心にのしかかるその不安は、いつか恐怖に近い暗さになってしまっている。
『紙のおもてに現れたものばかりに、私は囚われ過ぎるのかもしれない。たとえそれが何であれ、心の流れたそのままに、筆を運べたらよいのだが……』
 隆元の心には、かつて義隆の屋敷で見せて貰った雪舟の絵があった。それは、隆元が画学を学び始めたと耳にした義隆が、後学のためにと所蔵の軸や屏風を見せてくれた、その中の一点で、海を臨む岩山を描いた山水画だった。前面には岩肌が厳しく迫り、切り立った岩の山頂には老松が数本、黒々とそびえ、その威風が辺りを払うようである。しかし遠方に小さく舟の影を浮かべててきれきと広がる海は万物の営みを悉く包み込むが如くに、どこまでも穏やかであった。描く筆は伸びやかに流れ、しかし決して走り過ぎてはいない。何よりも自由闊達であった。画面は一部の隙もない構成美を示しながら、あたかも地を盛りたいと思えば山を描き、水を流したいと思えば川を描きといったような、悠悠とうねって行く精神の流れが筆あとに垣間見えるようで、そのどれ一つ取っても、隆元に感銘を与えぬものはなかった。是が非にもかくありたいと彼は乞い願い、今も願っているのであるが、しかし鷹の目玉一つ思うに任せず、悲喜交々しているようでは到底、望みは叶いそうもなかった。勿論雪舟とても、一枚の絵を仕上げるまでには何かしらの悲喜交々はあったに違いない。けれども出来上がった絵にはそのような精神の雑味は感じられない。一方隆元のはと言えば、我ながら表現が如何にも小さかった。幾度も手を入れ、時には破って最初から描き直しなどしてようやく描き上げてみれば、線のそこかしこに、創作中あれこれと悩んだその跡が滲んで見え、画面全体から息苦しさばかりが迫って来るのだった。
『雪舟のような絵が描けたらなどとは言わぬ。せめて、雪舟の絵を眺めた時に感じた、あのような心持ちで一枚、描くことが出来たなら、たとえ画学を断念したとて、心残りも少ないであろうに』
 思わず手を止め、隆元は涙の滲みそうな顔で唇を噛みしめた。彼の不幸のもう一つは、胸の苦悩を誰にも打ち明けられぬことであった。父母に言える筈がない。家臣らも同様である。主義隆のことは、それこそ父のように慕ってはいたが、これは義隆の耳に入れる類のことではない。そればかりか、友垣である天野隆綱にすら隆元は、己の胸の内を語れずにいた。天野は隆元とほぼ時を同じくして毛利家中より山口に送られて来た者で、人質という同じ状況に置かれた者同志、隆元と天野はすぐに近づき、のちには兄弟の契りを交わす程に親しんでいたのだった。天野は生真面目な、何より友思いの男である。悩みを打ち明ければ彼は必ずや隆元の身をひどく案じ、もしかすれば隆元以上に苦悩するに違いなく、それを思うととても語る気にはなれなかった。己の全く個人的な事柄のためにいたずらに人を苦しめるのは、隆元の望むところではなかった。
 もうこれで幾度目かのため息をついて、隆元はぱたりと筆を置いた。画学のこと、父のこと、家のこと、先程まで胸を圧迫していた種々の事柄が再び身体の中にうごめき出して、いつしかすっかり精神が濁っていた。こういう心境に陥ってしまうと、もはや創作は続けぬべきであった。進まぬ筆を励ましつつ無理に運んだとて、翌日になって見返せば、紙の上にはただ、ぎすぎすと荒んだ不自然な筆の跡ばかりが残り、それが気になるあまり一から全て描き直す羽目になることもしばしばであった。が一方では、残された少ない日のうちに、一枚でも数多く描いておきたいという未練もまた、彼の中にはあった。どうするべきかと筆を置いたままためらっているところへ、障子に影が動いて来て、家人が客の来訪を告げた。客は、筆頭家老の陶尾張守隆房であった。彼は隆元が山口で得た知己の一人だった。年は二十一で、隆元よりも二歳年長になるのだが、年齢の近い故の親しみか、時折このように、前触れもなく屋敷を訪ねて来ることがあるのだった。
「相分かった」
 筆を置く口実が出来たことに多少の安堵も覚えながら、隆元はすぐに酒肴を命じ、更に別の者を呼んで画具を片づけさせた。画用紙だけは、まだ絵の具が乾ききっていないために床の隅にただ寄せた。
「急に押し掛けて相済まぬ。迷惑ではなかったか」
 言葉程には済まながっていないような快活な口振りで急な来訪を詫びながら、長身の姿が部屋に入って来た。床に座ると、訪うたついでにと、隆房は、月の晦日に自身の屋敷にて能が催されることになったという話をして、来てくれるようにと隆元を誘った。晦日ならば何の障りもなかった。隆元はすぐに承知した。酒肴の膳が運ばれて来た。夜気を愉しみながら飲もうということになり、二人は濡れ縁に円座を持ち出し、膳を挟んだ。先刻この縁に立って隆元が夕暮れる庭を眺めた時から半刻も経ってはいなかったが、気がつけば夜のとばりはいつしかすっぽりと地上を覆い、隆元は再び、過ぎる時の速さに密かなおののきを覚えた。

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