盃を交わすうちに隆房が趣向を思いつき、庭のおちこちに燭台を据えさせた。庭は不思議な眺めとなった。敷きつめられた白砂は細々と燃える灯明の焔を映じ、仄赤い水をたたえたようであった。石組みや植え込みの木々は光と影とが複雑に入り組んで滲み合い、暗闇に閉ざされていた時よりも不分明な姿を現していた。うるんだ焔の色に何もかもが煙っているようであった。または降り込める光の糠雨に霞んでいるようでもあった。その霞む中に、手水の水の、暮れ刻にはくっきりと空を映していたおもてに、今度は灯明の明かりが明確に映りこんで、無造作に打ち捨てられた陽光の断片のようであった。
「面白き眺めにござりまするな」
 隆元が感心すると、隆房は例の絵心かと言って笑った。しばらく茶化すように笑っていたが、ふと何事か思い出して真顔に戻り、
「そうだ。先日出仕致した折、御屋形様のもとへ――殿がちょうど参られておったのだが、話す途中でそなたのことにも触れられてな、絵が真面目だとしきりに褒めておられた」
 と、隆元の画学の師の名を口にした。
「先生が」
「うむ、細かなことはちと失念してしまったが、何でも、芸能は技巧が上達する程に、真摯な心持ちを保つのが難くなる。その点において隆元殿のは、少々真面目過ぎるきらいもあれどやはり得難き素質であると、大体このように申されておった」
「左様なことを……」
 日頃より、芸の道は人に教わるものではない、己が手で探らねばならぬと言って、様々と言葉を尽くしては指導してくれぬ師であった。その師の口から出た思いがけない褒美の言葉を、隆元は驚きと感動をもって聞いた。筆先の魯鈍を嘆きながらも、耐えて精神を掘り下げ魂から血を一滴ずつ絞り出すようにして重ねてきた修行が報われたようで、闇から光へと急に目の前が開けた嬉しさであったが、しかし自身が今直面している状況を思うと、喜びの中にも一抹の悲しみの立ち交じって来るのはどうすることも出来なかった。
「如何なされた」
 おもてに射し込んだ憂いに気づいて、隆房が尋ねた。こちらへ向けた両の目が有無を言わせぬほどに黒く、それは何か星夜の闇が一点に凝(こご)ったように見えた。何事でもありませぬと不自然にごまかすのも気まずく思われて、隆元はためらいがちに口を開いた。
「――師より左様な褒詞をいただきながら心苦しいのですが、実は画学はもう、断念する心づもりでおるのです」
「やめてしまわれるのか。随分と熱心に励んでおられたようだが」
 隆房は不意を突かれた表情を浮かべ、「何故やめるのだ」と訊いた。父が許さぬからと答えるのは如何にも不甲斐ないようで気が進まなかったが、他に答えようもないのでそのように言うと、案の定隆房は
「理由はたったそれきりか」
 と呆れ返った。
「父が許さぬなどと。そなたも四つ五つの童でもあるまい、親父殿など如何様にでもなろう」
 憮然として言う隆房の声音の端には侮蔑にすら近い色がちらりとよぎったが、隆元は口をつぐんだまま、しばらくは何とも答えようとしなかった。父の意に沿うより他に隆元には選ぶべき道はない。それが何故であるのか、隆房にそれを答えようと思えば、隆元が生まれ落ちてからこんにちまでの、十九年に渡る父子の関わりというものをあまさず語る以外に術はなかったが、しかし乾いた陸地に立つ者に水底に沈む者の胸が分からぬように、たとえ言葉を尽くしたとて、毛利元就という人間を父に持ったことのない隆房には、隆元の追い込まれている状況は到底理解出来るとは思えなかった。やがて隆元は、しばらく黙り込んだのちこのような、一見何の脈絡も持たないかのようなことを吶々と語った。
「父の言い分は確かに理不尽です。しかし、父には大義がある。もののふの本分は弓馬の道であり、家を治むることであると。父が大義の側に立つ以上、たとえ幾ら道理が通っていようとも、私に勝ち目はありませぬ。大義に背けばそのまま咎人の立場にまわらざるを得ない。意味のない罪悪を、必要もなく負わされる不条理は、それは画学を奪われる以上に、私には耐えられぬのです」
 我ながら要領を得ぬ話であったが、今の隆元にはこれより他に語る言葉を持ち得なかった。隆房が何か言い返すであろうと隆元は思った。反駁するか、または問いを重ねるであろうと思ったが、しかし予想に反して隆房は何も言い出さなかった。「そうか」といったような相槌をかすかに洩らし、それきり、黙って黒々と深い視線を黄色い光に陰影を滲ませる庭の景色へと外したばかりだった。庭を眺める隆房の膝元には丹塗りの皿に干魚が、炙った焦げ目を浮かせて乗ってある。肉の、半ばむしられてささくれた間に肋骨が一本、光の加減か瑪瑙を削いだような光沢を向けている。隆房はつと、指を伸べるとその骨をつまんで抜き取り、それから何を思ったか指を弾いて庭の方へと飛ばした。骨は灯明を白く照り返しながら緩やかな弧を描いて落ち、やがて地面の白砂の方で硬質な音がかすかにした。
「――折角訪うて下さったのに、このような話ばかりではつまりませぬな。この話はもうよすことに致しましょう」
 促されたように、隆元は隆房の横顔に向かって言った。隆房に気を遣ったというよりも、むしろ、胸中を覆う懊悩を言葉にして語ることに、隆元自身が急に疲労を感じたのだった。
「――うむ、そうだな」
 そう答えて、こちらに笑みを向けた隆房のおもてには、部屋に入って来た時と同様の、屈託ない快活さだけがあった。酒をつごうと隆元は瓶子を手に取った。と、隆房がそれを横から奪い、逆に隆元の盃を満たした。隆元が目礼して盃を返すと、隆房はその盃を顔を仰のけて一息に干し、それから顔を虚空に向けたまま小さな笑声を洩らした。
「木蓮の香りだな。良い匂いがする」
 一言、言ったが、隆元には隆房の言うその香りはまるで感じられず、ただ曖昧な相槌を打った。灯明の焔が一斉に震えたと思うと、あるかなきかの、しかし噛むように冷たい夜風が肌身にひたと触れた。
 半刻ばかり物語などして、隆房は帰った。自室に戻ると、隆元は、その一端のみとは言え、父母にも友垣にも言えず堰き止めていた胸の内を隆房に向かって打ち明けた今宵の出来事を、一人振り返らずにはいられなかった。それは話の流れによるものであったことは確かだった。がしかし、「父の大義と反目するならば、自分は故のない咎を背負わされることになる」という、自身の中ですら明確に意識したことのなかった胸中の深い部分までも吐露するに至っては、その心境を自分自身ではかりかねる思いがした。と言うのは、知己とは言っても、隆元と隆房の間には常に埋まらぬ距離があった。それは二人の家柄の違いや、隆房が筆頭家老という重役を務めていること、そのために時として二歳という年齢差以上に大人びて感じられることなどに隔てられて、隆元は隆房に狎(な)れるような親しみは抱けずに来たのだったが、しかし今夜ばかりはその距離にこそ、自分は心安さを感じたということかもしれないと、隆元は思った。彼は立ち上がって障子を開けた。灯明のすっかり片づけられた庭は普段の夜と変わらぬ表情に帰り、何か醒めた夢のようであった。
 この夜のことを、しかし隆元はあまり日数の経たぬうちに忘れ去った。彼の前には山口での残り少ない日々と、その先に待つ決して明るいとは言えぬ未来とがあった。それを見据えつつ、創作への熱情と、芸術を棄てる決意と、全く相反する二つの思いに心を責められて日を送らねばならぬ彼にとって、何らかの明確な意味を持たぬままに通り過ぎた一夕は、いちいち振り返ってみるに足る出来事ではなかった。郡山に帰郷したのちは、政に忙殺され、目の前の雑事にばかり気を取られる中で、記憶はますます脳裏から遠ざかった。隆元の中に、隆房と語らった春の宵が甦ったのは、厳島で陶軍を破り、安芸廿日市にて、晴賢と名を改めた隆房の、首実検に臨んだ時のことであった。山口を去ってから十四年、最後に隆房と会ってからは七年という時が、二人の間には流れていた。その七年に、隆房は主大内義隆と次第に確執を深め、ついには謀反の兵を挙げて義隆の甥義長を自ら擁立し、大内家の実権を握った。隆元は始めはこれに従ったが、のちには毛利の護身のために主家、および陶家との断交を父に主張し、そしてこのことが、今回厳島にて陶と干戈(かんか)を交わす、直接の要因となったのだった。
 運ばれて来た頸は、冷たい苔の下に隠されてあったために傷みもなく、生前の顔かたちがはっきりと窺えた。それは隆房の名であった頃と何も変わらぬ面立ちであった。七年という隔たりこそあれ、清く伸びた眉も、快活さを窺わせる口元も、昔日の面影は色褪せることなく、そのままに首級の上に残っていた。頸を前にして隆元は、この一年余の間、毛利が主義隆のかたきと銘打っていくさを続けて来た陶晴賢と、かつて互いの屋敷を行き来し合った陶隆房と、この二人の人間がようやく自分の中で一つに重なったように思われた。しかしその一方で、眼前の懐かしい面影を見るほどに、隆房自身と、そして彼が引き起こした血生臭い謀反劇と、その二つがどうしても一つに結び合わないようなしこりは、やはり身体の奥に針のように引っ掛かっていつまでも残り続けるようにも思われた。隆元の脳裏にあの春の夜が、胸苦しいばかりにありありと思い起こされたのは、この時であった。火の霧に霞んだ庭の光景、筆を動かす度に立ち昇った絵の具のかすかな匂い、芸術への思慕と、それに伴う身を切られるような懊悩の苦しみ、そして隆房の
『木蓮の香りだな。良い匂いがする』
 虚空に向かってつぶやいたその声を思い出した時、あの夜、酒や、蝋の燃えるにおいの中に一筋、糸のように細く漂っていた甘やかな香りに、隆元は初めて気がついた。それは十四年の時を隔てて官能に届いた、夢の中に咲く花の芳香であった。心の内に漂う木蓮の香りを嗅ぎながら、隆元は、今も悩みの多い、自らの人生を思った。そして、あの頃己の全てと思いつめ、失うことをあれ程に怯えた、芸術への熱情は、今も自身の中に残っているのだろうかと思った。が、そう思っても、精神の内部を探ってみる気にはなれなかった。失われていれば悲しく、さりとて残っていたとしても虚しいだけであった。
 その夜遅く、陣屋から出た夜空には月が懸かっていた。月は、弓張り月であった。あの日、帰って行く隆房の背にも同じような弦月が懸かっていたことを、隆元は鮮やかに思い出した。

 ―了―
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