勝 山 春 記

 御屋形様の起きられましたのは、春の短夜も未だ明けきらぬ朝まだきのうちでございました。日頃よりお目覚めの早い御屋形様でございますが、今朝方は殊に早うございました。やはり昨日までの出来事のくさぐさに心身を責められ、よくはお休みになれなかったのでございましょう。かく言うわたくしとても、前の晩は身を横たえても心は千々に乱れて一向に休まらず、枕辺に灯した灯明の火影が壁板にちらちらと震える様を眺めながら、ほとんど眠れぬままに夜を明かしました。――わたくしは、周防大内家第三十二代当主義長様の小姓、杉民部でございます。
 まんじりともせぬままにいつか灯油は尽き、部屋に満つる闇を受け止めようとするかに両の目を見開いていたわたくしの耳に、御屋形様の寝所の方より雨戸を繰るような音が小さく聞こえ、わたくしは床の上に起き上がりました。身繕いし、急ぎ廊下を渡って行きますと、御屋形様の、寝所の濡れ縁に立っておられるのが見えました。早暁の蒼ざめた薄明の中に、身に纏われた寝装束ばかりが白く冴えております。宿直(とのい)の者が影のように周りを動いておりました。
 御屋形様はわたくしに気づかれると軽く頷いて見せられ、それから再び、庭の方へと目を戻されました。寝所の前には坪庭がしつらえてあるのでございます。三坪ばかりの内に白砂を敷き、石組みを幾つか配した枯山水の庭でございまして、周防大内家、豊後大友家、能登畠山家などが合力して建立致しました京大徳寺の塔頭、龍源院の庭を模したものと聞いたことがございます。石庭ですから樹木はございません。いえ、ごく数本ばかり、置石の陰にツゲやツツジの類があるにはありましたが、どの木も、かろうじて命を繋ぐことの出来る瀬戸際まで枝を刈り込まれ、樹木と申しますよりは庭石の如く変化(へんげ)させられておりました。ここ、勝山城のあります長門長府は、既に春も暮れようという頃を迎えておりましたが、その中にあってこの庭ばかりは何か、季節の移ろいというものからひとり置き忘れられたようでございました。ぼんやりと影を滲ませた石組みの周りに砂の色ばかりが白く目に沁みました。廊下の雨戸が次々と繰られていく音が、からからと遠く響きました。
 耳だらいなどが運ばれて来て、御屋形様は小姓らに手伝わせて身繕いをなさいました。顔を洗い口をすすぎ、髭なども整えてしまいますと、御屋形様は履きものの用意を命じられました。暁の七つ半辺りで、出歩くにはまだ少し足元のあやうい時分でございます。周りの者は驚きましたが、御屋形様は
「出かけると申しても、ただ主郭へ参るだけのことだ。案ずるには及ばぬ」
 そう申されて皆の心配を退けられ、わたくしに供を命じられました。わたくしは手燭を用意し、御屋形様の後に従って城館の門を出ました。館は勝山の山腹に立っております。裏手にはすぐ傾斜が迫り、急峻な山道を四半刻も上りますと、主郭のある頂に出るのでございました。夜明け前の静けさの中、空にはまだ星がわずかに残っておりました。ひんやりと湿った空気に包まれて流れる静寂は息をひそめるような深さに凝り固まって、それは何か、永久(とこしえ)の夜をわたくしに思わせました。御屋形様と、わたくしと、二つの足音が、一つに合わさってみたり、また二つに分かれてみたりしながら不規則な雨滴のようにひそひそと響き、峰々に漂う静けさを、否応なく我々の身の上に引き寄せるようでございました。
 灯を掲げても足元は暗く、昨夜の内に降った雨が歩みをしばしばあやうくし、わたくしを冷やりとさせました。城に入って間もなくの頃にも一度、ちょうどこのように、かたわれどきの中を御屋形様の供をして主郭へ参ったことがございました。その時は先達はわたくしではなく、隆世様でございました。御自身が生まれ育った城だけに道に慣れておられまして、「私の踏んだあとを歩めばよろしゅうございます」と言いおき松明を手に一足も踏みためらうことなくすらすらと山道を登って行かれましたが、その後ろ姿は頼もしいようでもあり、うっかりすると取り残されそうで怖いようでもあり、御屋形様もわたくしと似たことをお感じになられたのでございましょうか、「隆世、わたしを置き捨てる気か」と、笑いながら度々そのようなことを申されて後ろから声をかけておられました。
 隆世様と申しますのは、御屋形様の側近を務めておられました、家老の内藤弾正忠隆世様にございます。一昨年、大内の筆頭家老であった陶晴賢様が、厳島にて毛利に不覚を取り討ち死になされましたのを覚えておられることと存じますが、その陶様に代わり側近に侍したのが、隆世様でございました。御屋形様に近侍なされた時ははたちになるかならぬかというお若さでございましたが、内藤の家は陶家、杉家と共に代々家老職を務めて参られたお家柄でございましたし、そしてまた、隆世様の姉君は陶様の元に嫁いでおられ、隆世様はつまり陶様の義弟でございました。そうしたお立場上の関わりから、内藤の家臣団、のみならず何よりも陶の遺臣の方々が、陶様の後を引き継ぐべきは隆世様であると、御屋形様に強く後押ししたのでございました。
 勾配を上り切りますと、道は二の郭に入り、土橋を経て主郭へと至ります。主郭は山の頂を削り柵をめぐらせて東西に細長く伸び、中央に館、西端の奥に鎮守の社を置くという造りとなっておりました。柵ぎわまで寄られ御屋形様は遠方へと目を注がれました。眼下には長府の平野が、平野の向こうには海が広がっております。西が響灘、東が周防灘で、この潮が長門と九州とを隔てる境でございました。
 いつしか東より朝の光が覗いておりました。御屋形様と共に館を出た頃には暗碧に沈んでいた空はその色も薄らぎ、明るさを増しつつ徐々に遠のいて行くようでございました。そして大地の彩りは、光とも闇ともつかぬ薄青いもやの下から、明けゆく空に遅れまいと次々に甦って参りました。樹林の濃緑があり、若芽の萌黄がございます。黒く見えておりますのは土を起こした田畑でありましょう。ごくわずか、飛沫の如く窺える紅の色は春椿の花でもありましょうか。全ては水を覗き込んだように澄明でございました。そして全ては水底に没したかのように静謐でございました。かすかに、潮の匂いが致しました。
「民部、海が穏やかだ」
 御屋形様が申され、海の方を指差されました。まことに、波ひとつない海でございました。潮のおもては白い波頭も行き交う船もなく、光ばかりをたたえて静まり、あたかも磨き上げた瑠璃石の板を景色の中に碧く象嵌したかのようで、美しいような、物寂しいような、何とも不思議な眺めでございました。対岸の九州の山影が、筆でもって描きつけたようにくっきりと見えておりました。
「九州が見えまする」
「この方角ならば、見えておるのは門司の辺りであろう。向こうは晩春も過ぎて初夏の風が吹いておるやもしれぬ」
「やはりお懐しゅうございまするか」
 わたくしが尋ねますと、御屋形様は海の彼方を見やる視線はそのままに、寂びたような笑みを薄く滲ませこうべを振られました。
「いや、それは違う。晴賢に乞われ叔父上の跡を継いだ時より、わたしの中では豊後も、大友の家も、帰るべき場所ではないのだ。こうして、この目で九州の地を見ても感慨はない。むしろ折にふれ気に病まれるのは山口のことだ。もはやわたしが考えるべきことでないのは分かっておるが、それでも、今は如何様な有様になっておるかと思われてならぬ。無論毛利の軍勢は入っておるであろうが……」
 御屋形様は、遣る方ないため息をかすかに洩らされたようでございました。

 わずかに半月の日かずしか経っていないと申しますのに、今こうやって振り返りますと、山口のことは既に悉く、夢のように遠い日々に感じられまする。しかし思えば、大内家自体が、陶様が厳島で亡くなられてから今日までの一年半のうちに、これがあの大内であろうかと我々自身が疑る程に、見る影もなく衰えてしまったのでございますから、山口の町が左様に感じられるのも道理かもしれませぬ。
 ――陶様に代わり筆頭家老となられました隆世様は、何をおいてもまず、その前年より続いていた毛利とのいくさを如何にすべきか、決めねばなりませんでした。陶様亡き後の家中はひとかたならず動揺しておりました。と申しますのは、七年前、陶様は政変にて先代当主であらせられました義隆公を廃位致し、先代様の甥御である御屋形様――義長様でございます――を豊後大友家より、新しき当主として擁立されたのでございますが、御屋形様は他家より参られて大内の家政には慣れておられぬとして、そののちも一貫して、政の大事な部分は悉く、陶様が動かしておられたためでございます。
 この時毛利の軍勢は既に周防との国境を破り、玖珂の鞍掛城を、杉隆泰様はじめ一千人の城兵もろとも平らげて、岩国に食い込んでおりました。今毛利と戦うのはあやうい、和議を結ぶべしとの声もございましたが、隆世様はいくさの続行を強く説かれ、常の隆世様とも思えぬかたくなな姿勢で、和議の声にはいっかな耳を貸そうとはなさいませんでした。

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