「ならばお聞き致しまする。和議を唱えられる方々は、逆臣に頭を下げよと、御屋形様に申されるのでございますか」
 評定の席で、隆世様は激しい口調でそう申されました。逆臣とは申すまでもなく毛利元就殿のことでございます。元就殿は、先義隆公を廃位なされました陶様のやり方を謀反と断じられ、主義隆の仇を討つためと、周防とのいくさに及びました。なれど七年前の変の折、元就殿はその前々より陶様とは密かに気脈を通じておられ、兵こそ出さなかったとは申せ、間違いなく陶様の側に立たれ、共に義隆公に背かれたのでございます。そして共に御屋形様を新しき当主に戴いたのでございます。それをのちになって義隆公への義を楯に御屋形様に刃を向けるとは、謀反はどちらでございましょうか。
 ――無論わたくしとても承知致しております。主の仇討ちなど元就殿の本意ではございません。元就殿が袂を分かたれたのは、知行あてがいなどを巡って陶様にご不満を抱かれたのが第一なのでございます。そして、元就殿のように陶様に何かしらの不満を持つ者は、国の内外に少なからずおりましたから、先だっての陶様の所業を謀反と言い立てるのは、そういった者たちを自らの与同者に集めるためには都合が良かったという、それだけのことに過ぎません。
 隆世様は陶様を実の兄の如く慕っておられました。その隆世様にしてみれば、離反し、陶様を討った毛利は断じて赦せぬものでございました。そしてまた、それは隆世様の後ろ楯となっております陶家家臣団の意向でもあったのでございました。
 山口の守りを固めるということには、隆世様は随分と努められました。京の公家屋敷の風であった大内館には堅牢な塀を構え、堀をめぐらせ、また長きの籠城を考え、山口西方の鴻嶺(こうのみね)山上に大がかりな城の普請を急がせました。しかし、我々にとって誤算であり痛手であったのは、家臣団より離反の相次いだことでございました。陶様を失った動揺は我々が思う以上に大きかったのでございます。大内の行く末を危ぶんだ者が次々と傘下を離れ、一方では国のおちこちに国人衆同志の揉め事も起こりました。その内紛を、御屋形様と隆世様には治めきることが出来ず、結果、更なる離反を招くこととなったのでございました。
 毛利がいよいよ本腰を入れて攻略を始め、それでも一年近くの間は、徳山の須々万沼城にて山崎興盛様が敵を食い止めておられましたが、そこが落ちてしまいますと、あたかも山が崩れるかの如く、山口へ通じる徳地、防府両関の押さえであった右田ヶ嶽城も落ち、石見にて抵抗を続けていた益田藤兼様も力尽きて吉川元春殿に下り、たちまちのうちに山口は、裸同然となってしまいました。
 御屋形様の身を案じられ、隆世様はとうとう、山口を捨て御自身の領地である長門の城へと兵を退かれる決意をなさいました。左様でございます。それが先程からわたくしが話しております、勝山城でございます。勝山城は内藤家代々の居城でございましたが、南を青山、東を四王司山、西を竜王山が囲み、背後には白山、狩音山から峰を伸ばした大小の連山を負うという、天然の要害でございました。こうして我々は、まるで追われるが如く、二十四代弘世公より二百年に渡って都であった山口の地を捨て、長門の長府勝山城に入ったのでございます。
 勝山に籠城致しましたのはわずかに半月ばかりの間でございましたが、その短い日々のうちにも一日、わたくしには、忘れ難き美しい日がございます。その日は、何でも毛利方の総大将福原貞俊殿の母堂の命日にあたるとのことで使者が参り、合戦を一日休みにしたいとの申し入れがあったのでございました。
 打ち続いたいくさにこちらの兵もくたびれきっていたところでございます。御屋形様は快く、申し出を承諾なさいました。使者を帰すと、御屋形様は近くにいた者に、城兵に酒を振る舞うよう、命じられました。それから傍らの隆世様に、皆をねぎらうための酒宴を開いてはどうかと相談なさいました。
「それはよきはからいにて」
 隆世様はすぐに賛同なさいました。
「では宴は主郭にて開かれては。盂蘭盆会が近うございます。山遊びという趣向は如何かと」
 たかだか城山の天辺に筵を引いて酒を飲むだけのことを、山遊びなどと雅びて言い做す隆世様の洒落心を皆は面白がりました。早速酒肴が整えられ、近習、諸将打ち揃って主郭へ上り、宴が開かれることとなったのでございます。
 お人柄によるものでございましょうか。隆世様はこのように、周りの者の心を明るく引き立てることに、長けておりました。振り返れば陶様もまたそのような方でございました。陶様と隆世様、おふたりは、仲の睦まじさにしても、ご気性の似かよっておられることにしても、まことのあにおとうとのようでございました。――陶晴賢様でございます。のちには、様々の気苦労のためかあのように気難しいご様子になってしまわれましたが、お若い時分には、と陶様よりはたちも年若のわたくしがこのような物言いをするのは可笑しゅうございましょうが、お若い時分はたいそう明朗なお人柄で、快活な話術でもって何かと申しては座を華やかに盛り上げずにはおられない、左様な方であったのでございます。陶様は、特に幼少の折には義隆公より大変に寵を受けられ、寵童なども務められたことがございますが、それは眉目の麗しさ以上に、義隆公は陶様の明るい心根を愛でられたように、わたくしには思われるのでございます。
 宴の日は、まことに心愉しき、のどかな一日でございました。天には春にありがちの、暖かな霞をうっすら纏ったような晴空が広がっておりました。地にはけだるく眠たげな、午後の日射しが黄色く注いでおりました。主郭より見渡せば、東に周防灘、西に響灘、潮は世の果てまでも碧く伸びて、陽はその一面に銀砂子を敷いたように群れ踊っておりました。山肌よりゆらめいて立ち昇るかげろうの向こうには、長府の平野におちこちと毛利の陣旗が細くたなびき、しかしその様すらも、何か心なごむ景色と見えました。
 温い陽光の下に、皆は三三五五、思い思いに筵を広げました。炭火が起こされ、すぐにそこここに香ばしい煙が上がりました。餅を焼く者、干魚を焼く者、何やら凝った重を拵えさせて来たのを振る舞って回る者もありました。
 わたくしはと申せば、郭の一角に少々広く場を取り、他の小姓連中と相撲を取っておりました。土俵も定まっておらねば行司もいない草相撲でございましたが、大人の方々も面白い余興だと見物に参られたりなどして、もっと腰を落とせやら、手をしっかり掛けよやらと周りから盛んに声を掛け、なかなかに賑やかでございました。わたくしは力には多少自信があり、三人ばかり次々と倒しましたが、惜しくも四人目の者に負け脇に下がりました。流れ出た汗を拭い、傍らから酒を汲んで飲んだのでしたが、息の上がったところへ酒を入れたせいか急に胸苦しさを覚え出し、わたくしは中座致しました。
 わたくしはそのまま社の方へ歩いて行きました。社の周りには木々が茂っており、木陰で風を浴びようと思ったのでございます。社をまわり裏手に出た時、わたくしは少し離れた柵ぎわに誰か先客のあることに気づきました。木の陰から窺うと、それは御屋形様と隆世様でございました。柵の横木に並んでもたれ、海を眺めながら語らっておいででございました。
 先程わたくしは、隆世様が側近に上られたのは陶家の家臣団の意向によるものが大きかったのだと申し上げましたが、しかしそれはおふたりの間が疎であったという意味ではございません。むしろ隆世様の明るく篤実なお人柄を御屋形様は好いておられ、隆世様との仲は大変に良うございました。隆世様が御屋形様の元を訪ねることの繁かった辺りにもそれは表れておりましょう。ご機嫌を伺いに隆世様の方から顔を出されることもあれば、様々の用事が済んだのを見計らって御屋形様の方から呼ばれることもございました。
 殊に勝山に移られてからは、おふたりが、日の落ちた縁に座りお話を楽しまれなかった日は一日もなかったのではございますまいか。そうして、何事を話し合われていたかと申せば、いくさや、防長をめぐる情勢や、そういった政を口の端にのぼすこともないではございませんでしたが、しかし大抵は、ありていに申しますとどうでもよいことばかりでございました。幼き折の思い出であったり、たまたま目にとまった、鳥や、月や、雲や、そういったものの話であったり、またはその時々の心持ちのことであったり、端で聞いておりますとさほどに面白いとも思えぬ話を、おふたりはいかにも面白げに、愉しげに、語らっておいででした。
 そしてそういう時、御屋形様は別人のように朗らかな笑い声を上げられました。かつて先代様が陶様にお心を慰められたように、隆世様の明るい瞳もまた、ともすれば鬱しがちの御屋形様にとって慰めであったのでございましょう。傍目にも察せられるおふたりの幼友達の如き遠慮のなさを、契り交わした義兄弟の如く互いを思うお心を、わたくしは幾度となくうらやんだものでございました。

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