あとがき

 「運命が決した後」に、筆者は哀切のロマンティシズムを感じます。それは過ぎるべきものが過ぎ、死ぬべきものが死んだ終末感であり、そしてあたかもギュスターヴ・モローの描いた「ヘレネー」の如く、その中に立ち尽くしてひとり終焉を見届ける寂寥感です。
 この作品において筆者が最も描きたかったのは、その終末感と、寂寥感、戦が終わり、全てが死に絶えたように静まり返った長門の地と、それを見つめる大内義長の横顔でした。作中、義長が、降伏したその日のうちではなく、一夜明けた翌日に城を明け渡すという流れは、本来ならば不自然ですが、寂寞たる早暁の景色を書きたかったために、敢えてこのようにしたものです。
 主人公である杉民部は実在の人物で、長福寺(現・功山寺)で他の近習共々、義長に殉じています。杉家といえば、晴賢や興盛(作中に登場する内藤隆世の祖父)と共に家老職を務めた杉重矩が出て来ますが、重矩は政変直後に晴賢に誅伐されていることを考えると、鞍掛城で討ち死にした杉隆泰の方の親族であろうかと思います。功山寺には義長のものと並んで墓があり、解説によると、死んだ時は18歳であったそうですが、それ以外はほとんど詳細は分かりません。
 最初、主人公は義長にするつもりでした。城山の主郭で、晴賢を失ってからの戦いの日々を、隆世の思い出と共に回想しつつ、最後に長福寺に向かう駕籠の中で自らの死を予見して終わる筋立てだったのですが、しかし一通り書いてみると、大内家を守りきれなかったこと、隆世を見殺しにしなければならなかったことなどに対する義長の心理を詰めることが出来ず、不満が残りました。そこで、主人公を義長の身近に侍した杉民部に変え、黙して死に赴く義長の姿を、義長の内面からではなく、杉民部による第三者的視点で書くことにしました。結局こちらの方が作品の主題である「滅びの寂寥」がより明確に表現できたように思われ、そのまま杉民部が主人公となったのです。
 最後に作品について些事を幾つか。晴賢没後から大内家滅亡の期間については思うような資料が集められず、通り一遍の記述に終わらせてしまい、反省が残りました。小説の最後に登場する、義長のもう一つの辞世は、「豊府史略」に伝えられているものです。勝山城は、当時の城館の位置などは正確に分からなくなっており、そのため出雲の富田月山城をモデルに書きました。山麓の城館の裏手から主郭へ急峻な山道が伸びるところなどは、そのまま月山城を模しています。
 ……ところであとがきも終わろうというところで気づいたのですが、中世の山城に、作中のように木々が生い茂っているのはおかしいですね……。敵兵が進入した場合、叢林は格好の隠れ場所になってしまうため、城山の木は殆ど伐採してしまうのだそうです。現在の月山城の写真を見ながらイメージを作ったためにやってしまったミスです。いずれ書き直そうと思います。

追記
城山の木を伐採しました。


参考資料
■Wikipedia
大内義長
内藤隆世
防長経略
月山富田城

月山富田城
管理人46(しろ)氏による城跡紹介のサイト「
ザ・登城」より。
鞍掛城合戦と杉隆泰の墓・辞世
Samurai World」の「サムライたちの墓」より。
鞍掛城と古戦場跡
Samurai World」の「古城紀行」より。
杉隆泰家の略系図鞍掛合戦について
岩国の「
郷土文化財保護実行委員会」のサイトより。
周防 沼城
須々万沼城での合戦について。「
お城の旅日記」より。
沼城
須々万沼城での合戦について。「
Samurai World」の「古城紀行」より。
羽仁源七
Linkでも紹介の「
安芸・毛利一族HomePage 」より。安芸矢野保木城について。「棚守房顕覚書」「二宮覚書」「森脇覚書」の記述を紹介しています。なお、ページはネット上に存在しますが、トップページからのリンクは切れているようです。
保木城の悲劇
(財)広島市ひと・まちネットワーク 矢野公民館」の「小学生のための矢野のれきし」より。「小学生のための」とは言え、内容は詳細です。
大内義長の辞世
歴史考察、辞世の句の紹介、史跡の旅行記などを扱ったサイト「
是非に及ばず!」より。キリ番をゲットすると幕府の役職又は官位が貰えます。
(伝)大内義長の墓
下関市長府地区を紹介するページ「
城下町長府」の「功山寺」より。義長の墓の他、杉民部、陶鶴寿丸(晴賢の末子)の墓、作中登場の、義長のもう一つの辞世もここで紹介されています。
■渡会恵介「京の名庭」昭文社
■小和田哲男「戦国の城」 学研新書


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