夢 魔 草 子 

 赤い火のちらちらと揺れる火桶に黙然と肘をもたせ、館の主、大内義隆は暮色の忍び寄る部屋をじっと眺めている。短い冬の日は少し前に山の端に隠れた。冬の残日は脆弱で、加えて館の庭は四季折々の景観を演出するために樹木が多い。障子から染み入った薄闇は、彼の周りに見る間に影を濃くした。それは潮が満ちて来るのに似ていた。そうして、やがて部屋がすっかり闇に包まれた時、義隆は、今にも体が暗い水底に引きずり込まれるような不安に、突如として駆られた。急いで手探り、明かりを灯したが、しかし灯してみると、今度は灯明の、目の奥に突き込むような無遠慮な明るさが耐え難く、気分は一段と滅入った。
 長年彼を苦しめている気鬱の病だが、今夜はそれが殊の外重いようであった。頭の中は一面薄氷が張りつめたように緊張していた。背には、疲労とも倦怠ともつかぬ暗いものが、濡れた海藻のように纏いついていた。心の奥に不安の黒い芽のようなものがあって、それが絶えず不吉な漣を立てていた。目を転ずると、床の間の柱に掛けてある竹の花入れが目に入った。久しく花の生けられていないその花入れは、どことなく、打ち捨てられて干からびた獣の骸を思い出させた。花入れの、明かりの方に向いた面は、真っ直ぐな胴の上につややかな、硬い光沢を浮かべていたが、反対側の面は切り落とされたように影が覆い、影は床の間の壁にもうっそりと伸びて、灯明の炎がゆらゆらと揺れるのに合わせた、小刻みな伸縮を繰り返していた。義隆はその乾いた花入れと、索莫と震える影絵とに、いくばくかの好意を感じた。少なくとも、いろどり鮮やかな、馨しい花の生けた花入れよりは、彼の神経を痛めつけないのは確かだった。
 ふと廊下に女の声がして、義隆は振り返った。応えると、一人の侍女が熾った炭を持って入って来た。慎ましく目を伏せた色白の顔が視界の隅を横切り、火桶の向こうに座った。横目にちらと見たときは美しい女と思ったが、真正面に見据えると目が細面の顔には不釣合いに大きく、おまけに表情も乏しくて存外美しくはなかった。火箸を取って火桶に炭を足し始めたが、白い手を働かせながら、侍女が視界の端でちらりと義隆の様子を窺ったのが分かった。
『またか』
 たちまち、苛立ちが胃の腑に硬くこわばった。
 義隆の気鬱に侵されていることは家中で知らない者は誰もなく、家の者は皆義隆には腫物に触れるようにして接していた。特に、侍女や小姓ら、義隆の身辺を世話する者たちの気兼ねすることはひと通りではなく、今日の御屋形様の御心の按配は如何であるか、何か些細なことで勘気に触れはすまいかと、主の元を訪れる度毎に、恐る恐る義隆の様子を盗み見るのが常であった。しかし、そのくせこちらを案じているはずの彼らの目には、病み人へのいたわりは微塵もなかった。察せられるのは恐怖と、強いてもう一つ挙げるとすれば好奇であった。その目のない視線は何に似ていると言って、座敷牢に幽閉された狂人を見る目に何より似ていた。そして憂鬱が嵩じたせいで外からの働きかけには病的に過敏になった義隆の心身は、その視線とも呼べぬ視線を、彼自身が望むと望まざるとに関わらず、まるで焼ゴテが近づくように明確に感じ取るのだった。そのため皆の目は義隆を絶えず苛立たせ、のみならず、胸の中に故のない不安を掻き立てて気鬱を後押しすることすらしばしばだった。
 目の前に炭をくべる手に火が映っている。侍女の、火に赤く染まった白い手は、義隆に月の障りを思わせた。炭を足し終え、火箸を置いた侍女は、そのまま火桶の前にぼんやりと座っている。表情のない顔をうつむけて、何かに魅入られたように炭火を覗き込んでいる様が妙に薄気味悪く、義隆は「もう下がってよい」と命じたが、侍女は瞼を押し上げるようにちらっと義隆を見上げたきりで、何とも答えずにまた火桶に虚ろな視線を戻した。が、こちらへ顔をもたげた一瞬、その顔が、離縁した妻の貞子に瓜二つに見え、義隆は思わずはっと息を呑んで顔を後ろへ引いた。
 寵愛していた側妻の一人が男子を産み、それを機に義隆は貞子を離縁したのだった。貞子に子はなく、そして貞子の年齢を考えれば側妻の産んだ赤子が嫡子となることは確かであった。子のない正室と、嫡男の生母である側妻との間に、家政紊乱に繋がりかねない閨閥の対立が起こることを、義隆は危惧したのである。やむを得ぬ事であったのだと、のちに義隆は繰り返し自身に言い聞かせたが、しかし長年連れ添った妻に理不尽な仕打ちをしたことに変わりはなかった。のみならず、己の弱った精神を心痛から守ることで精一杯だった義隆は、貞子を前に口では詫びながらもその心中を汲むことは拒み、ただただ、眼前に惨憺たる愁嘆場の繰り広げられることのないようにと、それのみ案じていたのは偽らざる心であった。これらのことは呵責となりしこりとなり、義隆の胸に影を投げかけていた。
 義隆は顔を後ろに引いたまま、うつむけられた侍女の頭頂部を半ば放心の態で凝視した。圧されるように黒い髪の真ん中に、櫛できれいに筋をつけた分け目が、天の川のように仄白く浮かんでいた。火桶の前に座り込む侍女の姿は堪らなく気味が悪かった。しかし部屋から下がるように命じて、再びこちらへその顔を向けられるのはもっと恐ろしい気がした。胸の奥に潜ませていた密事が暴かれたような、それとも体の奥に巣食っていた病魔が腐肉となって吐き出されたような、そんなしんと静まった恐怖が義隆を捕らえた。
 侍女も何もその場に打ち捨てたなり、義隆は後ずさるように立つとそのまま逃げるように廊下へと出た。雨戸がまだ開けられたままになっていて、濡れ縁に繋がる廊下からは鉄色の空が、軒に斜めに切られながら見えていた。月も星もない空だった。そして廊下は長々と暗かった。たった今出て来た自分の部屋の前がぽっかりと明るいだけで、その先はすぐに地に吸い込まれたような影になっていた。部屋から遠ざかりたい一心で、義隆はいつもならば不安を覚えて容易には近寄らぬ闇中へ、手燭も携えずに入って行った。廊下沿いの部屋は明かりの灯っている部屋とてなく、闇を照らす何ものもなかった。影がごく細かな粒子となって漂って行くようだった。歩む足元は定かには見えず、その代わり床板は素足の裏にしきりにひんやりとした感触を伝えた。それは粘つくようなねっとりとした滑らかさで、生木から滲みたての樹脂に似ていると義隆は思った。実際、あるはずみには、踏み下ろした足の下に、泥のぬかるむような感触がすることもあった。足を取られて闇の底に倒れ込んだならどうなるのだろうと、そんなことを義隆は考えたりした。
 進むうち、廊下の奥にぽつりと赤い火が現れた。近づくとそれは吊り灯籠の灯であった。軒から決まった間隔を置いて下げられているのだったが、しかし廊下を照らすほどの明るさは持たず、進む方に廊下が伸びていることを示すだけであった。一つ、と、義隆は歩み過ぎながら心の隅で何気なく灯籠を数えた。二つ、三つ、四つと、視界の脇を赤いゆらめきが流れる度、彼は数を読んだ。灯火は数え上げるそばから際限もなくその向こうに現れた。そしてそれにつれ、廊下もどこまでも奥へ奥へと伸びて行くように思われた。急に不安になって、義隆は足を止めた。頭が少し朦朧として、自分が屋敷の何処に立っているのか、判然としない気がした。
 目の前の部屋の障子を彼は開けてみた。板敷きの大広間で、やはり微粒子のような薄闇が流れていた。何かの義務に引かれて、その遠い夢のように朧げな空間に、彼は足を踏み入れた。部屋の空気は病人の汗のような冷たい湿りけを含んでいた。重苦しい不快な臭いさえ含んでいたが、しかし黴や腐敗の臭いとは異なっていた。闇の臭いではないかと義隆は思った。そしてもしかしたら時間の。湿気のせいか、足元の床はしばしば掠れたきしり音を上げた。彼はその度に、自分の病んだ骨が鳴っているのではあるまいかという故のない不安に駆られ、息を詰まらせた。
 首を巡らせ彼は広間の建具や調度の類を順に眺めた。目の前の襖には紅白の臥竜梅の梅林が一面に描かれ、鴨居や天井は四季の花鳥図で飾られていた。床の間には大きな銅の香炉が、睨めるような鈍い光をこちらに向けていた。それらのどれもどれも、彼には確かに覚えがあった。が、いざそれが屋敷の何処の間であったかとなると、急に、周りの闇がぐっと身に迫って来るような心持ちがして、如何にしても思い出せないのだった。義隆は臥龍梅の襖に手をかけ、引き開けた。襖の向こうに部屋はなく、黒ずんだ壁板に囲われた廊下が、左右に長く伸びていた。おもての薄明かりが大広間の障子を通してかろうじて入っているのか、開けた襖の目の前の辺りだけが、うっすらと明るいようであった。
 ふと、義隆は床板の、ちょうどその薄明の射した所に、三寸ばかりのムカデが一匹這っているのに気がついた。ムカデは足を除く全身が不自然に赤かった。そして暗がりの中にいるにも関わらず、その赤い色が浮き上がったようにくっきりと見えていた。ムカデは床と壁の境をあちこち這い回りながら、壁板によじ登ろうとしてはずり落ちるという動作をしきりに繰り返していた。ずり落ちる度、爪が木を掻きむしる音が小さく、しかしひどく耳障りに響いた。その、赤い胴体がちろちろと蠢くのは、何よりも炎に似ているのだと義隆は思いついた。それは、廊下の軒下に際限もなくゆらめき現れて彼を惑わせた、吊り灯籠だった。そしてまた、部屋に来た侍女の面輪へ赤い影と共に貞子の皮を被せた、火桶の炭火だった。途端に彼は不安とも恐怖ともつかぬ感情に駆られ、暗い廊下に大股に踏み込むなり、足の下にムカデを踏み殺した。赤い色が消え、爪音の絶えた廊下に、ぬるい沈黙が覆うた。沈黙の中に、義隆は紛れもない彼自身の、低い、不吉な鼓動を聞いた。闇が四角い管となってどこまでも続く空間の、鼓動はその闇の向こうから聞こえるように思われた。

 ――気がつくと、義隆は自分の部屋に、暮色の漂う中火桶に肘を持たせてぼんやりと座っていた。障子の外には寒々とした陽光が未だ残っていたが、しかし紫紺を帯びた薄闇も、既にして障子の縁を侵し始めていた。義隆は明かりを灯した。不明瞭に黄ばんだ光が打ち震えながら部屋に広がった。義隆の肘の下で、火桶の銅にあしらわれた螺鈿の葡萄がいち早く灯火を察し、ぬめるような光沢を放った。障子の向こうが次第に暮れなずんでいくのを、義隆は老いた虫にも似た倦怠のまなざしで見送った。丸い明かり障子の傍えには、竹の花入れに生けられて数本の蝋梅が、床の間の柱に掛かっていた。おもてに美しい玻璃質のつやを戴いた花枝を前にして、義隆は今更のように重い疲労を感じた。憂鬱が身の内に潮のようにひたひたと満ちた。やがて辺りに闇が落ち、廊下に声がして、侍女が入って来た。炭火を携えうつむき加減で義隆の視界を横切り、火桶の前に座った。そうしてふと顔を上げ、しかし上げたその顔こそは、館を去ったはずの貞子であった。

―了―

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