また別の時は、母の兄である権中納言より庭を見に来てくれるよう招かれ、皆で訪れた。権中納言の別邸は小倉山の山麓にあり、訪れた時はちょうど、庭は木瓜(ボケ)の花が盛りとなっていた。
「そうか、権大夫殿は北嵯峨は初めてであったか」
 権中納言は上機嫌で言った。屋敷の周囲は生きものが絶えたように静かで、静寂の中に、曇天の空を背景に、白木瓜の、薄紅をほんのりぼかして枝一面に咲き乱れる様は、権中納言がわざわざ招くだけあってあたかも無何有(むかう)の郷をそぞろ歩くような美しさである。庭を案内しながら、権中納言は周辺の見所をあれこれと義弘に講釈していたが、ふと思い出して、
「そうそう、手近なところだと、ここから少し上った所に京極中納言の庵跡がありましてな」
 と言った。
「藤原定家卿の。嵯峨和歌集(百人一首)を編まれた山荘にござるな」
 義弘は強く心惹かれたようだった。一通り庭を見、座敷で菓子などいただいたあと、義弘は足を伸ばしてその庵跡を訪れてみたいと言った。
「わたくしお供致します」
 陶子がすぐに腰を上げた。
「ああ、陶子はまだ訪うたことがあらなんだか。うむ、あそこの寺は景色も大層よろしいから、良い折じゃ、権大夫殿に連れて行っていただきなさい」
 と、伯父の快諾を得て、陶子は勇んで義弘と共に出かけた。定家が庵を結んだという二尊院へは、木々の間を通された林道を行く。林道と言っても、繁く往来のある参拝の人々のため、並んで歩けるだけの幅もあり、地面も下草を払って整えられていたが、義弘は林に入ると、後ろに従っていた従者に命じて、陶子の脇に付かせた。左右を義弘と従者に挟まれ、前には先達の者、後ろにも家人が二人従っているため、陶子は自然と人垣に周りを囲まれて歩くような格好になった。
「厭。これではまるで引き立てられて行く罪人のようではありませんか」
「ところどころ、道が滑ります」
 不満顔の陶子を、義弘はそう言ってなだめた。それから急ににやりと笑って、耳元に口を寄せ囁いた。
「探題殿に怪我でもされては、幕府の九州経営は立ちゆかぬのでござりまするぞ」
「まあ、それは」
 たちまち顔を赤らめて、陶子はおとなしくなった。
「権大夫様、ひどうございます。お忘れ下さいと何度も頼んでおりますのに」
 目じりをきっと張って、陶子は義弘をにらみつけた。が、まつげに囲まれた黒い瞳には照れ隠しの笑みが消し切れずに残っている。そこを目ざとく見つけ、義弘は悪戯な少年のように、声を殺して笑った。
 「探題殿」とは、陶子と義弘の間の、ごくつまらない密事と繋がった言葉なのだった。十、どころか二十近くも義弘と年が離れていることが、陶子には気に病まれてならなかった。出来るだけ大人びて美しく見えるよう、義弘の前では立居振舞い、言葉の端々、墨をすったり筆を取ったりといった些細な所作にまで、神経を砕いていた陶子であった。ある日、陶子は父のことづてを預り、義弘を部屋に訪ねた。
「父が酒でもと申しておりますが、如何でございますか」
 陶子はことづてを伝えた。
「よろしゅうござるな。すぐ伺うとお伝え下され」
「承知致しました。では、西の棟に用意が出来てございますから、参られよ」
 どうしたはずみか言葉が滑り、参りましょうとか、お越し下さいとか言うべきところを、陶子は、参られよ、と、男言葉を使って言ってしまった。陶子は飛び上がって慌てた。せめて義弘は気づかずにいてくれたらと願ったが、それも虚しく、おや、という表情のあと義弘は弾けるように笑い出した。
「も、申し訳ございません。わたくし、その、とんだ失礼を……」
「いや、謝るほどのことではありませんよ」
 しかしそう言いながらも義弘は相も変わらず可笑しそうに大笑するばかりで、とうとう恥ずかしさにいたたまれなくなって、陶子は顔を覆って部屋を出て行こうとした。
「お待ち下され」
 義弘が袖を捕え、笑いながら陶子を押しとどめた。
「お気を悪くなさらずに。今しがたの陶子殿の口振りが探題殿とあまりに似ておられたもので」
「大叔父様と」
「何と申しますか、こちらの身が自然と引き締まるような物言いが、ちょうど出陣を控えられた探題殿に似てござった。声音も容姿もまるで違うおふたりであるのにと、つい可笑しゅうなったのでござる。このとおり、何卒ご容赦下され」
 そう言って義弘は大真面目に両の拳を床につけ、主にでも詫びるように陶子に向かって深々とこうべを垂れた。義弘の前で失態を演じてしまったやりきれなさはまだ胸につかえていたが、その瓢げた仕種に陶子は思わず吹き出して、そして笑ってみると失態も何となくすすがれたような気持ちがした。
「収めましょう。おもてをお上げなさい」
 陶子も負けじと、平伏する義弘の頭に鷹揚に答えた。二人の笑い声が風のように部屋を吹き抜けた。
「あの、権大夫様。先程のわたくしの非礼、誰にも言わないで下さいませんか」
 ひとしきり笑い合ったあと、陶子は義弘のそばへ寄って声をひそめた。
「非礼とは、参られよ、のことにござりまするか」
 と、義弘はにやにやしながらその言葉をわざわざ繰り返し、しかしすぐに頷いた。
「承知致した。口外は致しませぬ」
「それと権大夫様も、お願いですから忘れて下さいませ」
「それも承知致しました」
 きっとですよ、と、しっかりと口止めした陶子であったが、しかし内心では、義弘も多くの大人と同様、年若い陶子との口約束など守りはするまいと思っていた。家を揺るがすような大事ならばともかく、陶子のは取るに足らない失敗談に過ぎないのである。陶子の口振りが大叔父の了俊に似ていたとは、酒の席で披露するに格好の笑い話であるし、以前父が、周防からの客人に仁王像を期待していた陶子の逸話を酒の肴にしたように、義弘もまた今から酒の膳についた途端、たちまち禁を破って皆に面白可笑しく語って聞かせるのだろうと、陶子は部屋を下がりながら肩を落とした。
 次の日、陶子は立居振舞いの躾には厳しい母に呼び出されるものと身構えていたが、その日が過ぎ、翌々日が過ぎてもその気配は一向になかった。数日の間平穏をいぶかしんだのち、陶子は父母にそれとなく尋ねてみた。が、二人ともまるきり的外れなことを言うばかりで、事情を知りながら恩情を持って不問に伏してくれているというのではなく、本当に何も知らないようだった。陶子は初めて、自分とのつまらない約束を義弘が守ってくれたと知った。
『ああ、権大夫様という方は』
 そういうお方なのかと、陶子は嬉しさに胸を震わせた。翌日陶子は侍女を連れて近くの野に出かけた。おだまきや山吹といった野花を腕いっぱいに摘んで戻り、大きな花生けに手ずから生けた。経机に乗せ、侍女二人に義弘の部屋まで運ばせた。
「これは、見事にござるな」
 部屋に運び込まれて来た、こぼれるばかりに花の咲き乱れた花生けに、義弘は書見台から上げた目を見張った。
「近くの野で摘みましたの。権大夫様に、お礼のしるしですわ」
「礼? 何の礼ですか」
「それは、内緒」
 陶子は袖で口元を隠し、愉しくてたまらぬようにくっくっと笑った。
「では何の礼かは捨て置いて、素直に受け取りましょう」
 捕らえどころのない少女の心を、義弘は恐れもせず、抗しもせずそのままに受け止め、微笑した。手をしばし花叢に遊ばせ、それから礼にと言って春の野辺を歌に詠み、陶子にくれた。
 件の一件を口外せぬとの約束を守ってくれた義弘であったが、義弘自身も忘れてくれるようにというもう一つの約束の方は、しかし義弘は結局、守らなかった。それからも、義弘は何かといっては陶子を「探題殿」と呼んだり、また二人きりの時は陶子に対し僕のように慇懃にかしこまって見せたりしては、面白がった。そのたび、陶子は大仰に眉をそばだて、目をいっぱいに見張って怒った表情をつくろう。まず義弘が笑い、それから陶子が笑う。ひとしきり笑い合って、そこでやりとりは終わるのだった。それは陶子と義弘が共有した、ささやかな、しかし二人だけの秘め事であり、一連のやりとりは二人にしか理解し得ぬ秘密の言語であった。怒ったり、たしなめたりしながら、そのくせ陶子は、義弘との間にその密やかな会話の始まるのを、いつも心待ちにしていた。

                 
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