――行くうちに、林道の両脇には花をつけたツツジの潅木が現われ始めた。緋色に染め上げた花弁は枝葉も見えぬほどに咲き乱れ、頭上に喬木の梢がさやさやと鳴る木の下陰(このしたかげ)に小指で紅を差して行くようだった。陶子が幼い頃、父は野にツツジが咲くと花をむしっては、腕に抱いた陶子の小さな口に蜜を吸わせた。ある時花も食べられるのだと教えてくれて、試しに噛んでみたが苦いばかりで美味しいとは思われなかった。幼い折の思い出が蘇って、陶子は脇を歩く従者に頼んで、緋の花をいっぱいにつけた枝を折り取ってもらった。花を一つむしって、
「権大夫様、如何でございますか」
 と、すまして義弘に差し出した。
「一体何事ですか」
 などとは、義弘は問い返さなかった。指の間に花を受け取り、慣れた仕種ですうっと蜜を吸い、陶子に向けた目を笑わせた。陶子も義弘を見上げ、くすりと笑った。義弘は背が高い。父や、おじや、従兄弟たちや、これまで陶子の周りにいた男の人のその誰よりも義弘は上背がある。その長身の義弘の顔を首を反らせるようにして高々と仰ぐのは、何か恥ずかしいような嬉しさであった。義弘を見上げたまま、陶子は唇の間に花をくわえすうっと蜜を吸った。吸い終えた花殻を足元に捨てた。二人は代わる代わる花をむしっては吸い、吸っては捨てた。花は人々の行き過ぎた地面に、去る者を追うかのように、点々と紅を残した。
 花がすっかりなくなる頃、二尊院に着いた。門前を掃いていた寺男に訪れた理由を告げると、寺男は門内に入って行きやがて入れ替わりに若い僧が顔を出して、境内を案内してくれた。砂利を敷いた参道を抜け唐門をくぐると本堂がある。本道の脇からは細い石段がまっすぐ山に向かって伸びており、石段をたどって二条家、嵯峨家といった公家の人々の墓所を抜け、法然上人の墓も行き過ぎて登りつめた先が、定家の庵、時雨亭であった。
 建物自体はとうの昔に取り壊され、潅木や雑草も茂って庵跡と言ってもそこは既に薄暗い荒地となっていたが、しかし注意深く見ると柱の礎石らしきものが、地に埋もれかけて残っていた。石は四角を作って規則正しく並んでおり、目でたどるとかつての屋敷の有様が彷彿とするようであった。
「ここで、和歌集を編まれたのですね」
 陶子が感心して言った。
「和歌集は、万葉から新古今まででございましたね。そのような長きに渡る内から、わずかに百首を選ぶのは、大変なご苦労でしたでしょうね」
 木々の間にひっそりと横たわる屋敷の残骸を、陶子と義弘は感慨深く眺めていた。俊成、定家父子の輩出で、定家の御子左家は歌道の名家として確立を見たのだった。そして下って定家の孫の代に、家は二条家、京極家、冷泉家の三家に分家し、それと共に京歌壇もまた、二条派、京極派、冷泉派の三派に分かれたのだった。つまり二条派の義弘にとっても、冷泉派の陶子にとっても、藤原定家は歌の祖であり、仰ぎ見るべき歌仙なのだった。庵跡を拝むというのもおかしな話だが、陶子は歌の上達を願って胸の前に手を合わせた。
 時雨亭からは、小倉山の傾斜を覆う葉叢ごしに嵯峨野の一帯がのぞまれた。点在する寺院をそれぞれに囲んでこんもりと茂る林、田畑、荒れ野、遠くにはなだらかな傾斜を見せて衣笠山の稜線が長く横たわり、蒼みがかった薄鼠色の空の下、緑色の陰影が美しかった。眺めるうち、遠くの樹林の陰から大きな鳥が一羽飛び立った。長い翼の影はトビでもあろうか、梢の密生した上をしばらく舞い、やがて両翼を大きく打ちつけて高く飛翔した。羽をまっすぐに張り、音のない空を紙の吹き流れるように斜めに横切った。見つめる陶子の胸にふと、清冽な寂寥という、義弘が北嵯峨について語った言葉が迫った。
 陶子は、感に堪えた。眼下の景色はまさにその、清冽な寂寥そのものであった。この静寂を詠みたいと、陶子は咄嗟に願ったが、思いに反して詞は出て来なかった。冷泉派の歌風は、心に浮かんだ情感を心のままに詠み表わすことにあるのだが、しかし今陶子の中に湧き立つ情感はいたずらに胸を責めるばかりで、口の端にのぼそうとすればするほど、波となって詞を砕き去った。
「ならばその情は詠まずにおきなされ」
 義弘が言った。
「沸き起こる情感に背を押されるままほとばしる歌もござる。しかしまた、情感を幾日、時には幾年も心の底に沈めるうち、雑味が取り除かれて澄み、または新たな雑味が加わりもして、しかるのちにようやく一首に結晶する歌もござる」
「幾年も沈めておいては、権大夫様はそれこそお国に帰ってしまわれます」
「そうなったら山口に送って下さればよい。探題殿の使いとして連歌僧などがたまさか、下向しておるのは存じておられまするな。あの者たちの手に託して下されば、間違いなくわたしの元に届きまするゆえ」
 義弘は事もなげに言った。陶子はじっと義弘を見上げ、それから黙って頷いた。義弘の傍らを離れ二、三歩、崖ぎわに歩み寄った。左手の遠方にあだし野の森が見える。かつては風葬の地で、野辺には数限りない屍がるいるいと横たわっていたと言うが、空海上人の手で埋葬が行われ、先程墓所を通って来た法然上人が念仏寺を開いた今は、その記憶は緑濃い森の奥に眠ってしまったようであった。緑の間から一筋の煙が昇っていた。野辺送りの煙と思われた。嵯峨野に風はなく、雲の垂れ込めた空へ向かって、煙は吹き流されることなくどこまでも昇った。

                   
*

 五月雨の音が部屋に立ち込めている。音調も抑揚もないまま静けさだけを奏でて、陶子の白い手と、櫛と、櫛歯を噛む黒髪とを包んでいる。陶子は耳だらいに水櫛を浸した。湿した櫛で撫でつけると、髪は露を含んで、灯火の光が幾千の金糸となって流れた。地を覆って降り込める雨脚が、髪のおもてに束の間、現出したかのようだった。
 水櫛を置いて、再び梳櫛を手に取った。前髪を撫でつけ、小鬢、こめかみ、首筋と櫛をあて、順ぐりに頭頂へ梳き上げては手の中に束ねて行く。髪を掻いて奔放に滑る櫛のあとに、光の糸は影となって従順につき従った。濡れた髪が、指の間に清流のような感触を残した。
 髪を一束、陶子は指先に絡めてみた。柳の若枝のようにしなやかな、弓弦のように力強い張りを持った、若々しい髪だった。いくさ場に馬を駆る血の高揚が黒髪の一筋一筋に脈打つように思われた。指をゆるめると髪束はたちまち鞭のように身をしならせて逃れ、逃れるはずみに先端が、陶子の頬をかすめた。ひんやりと冷たく、しかし花のように優しい打擲(ちょうちゃく)であった。揺れた髪の間に芳香が匂った。仄かに甘く、甘い内に一点、涼しく冴えた香りを含んで、梅花を吹き抜ける寒風を思わせる匂いである。髪に刷かれた香油の匂いに、陶子はそっと、頬を寄せた。陶子の仕種を知ってか知らずか、義弘は身じろぎもせず、無言で座っている。
 陶子は、頬を引いた。あとは銀朱の塗り櫛の髪をたぐる柔らかな音、髪と髪がすれ合うかそけき音、やがて髪はまとめ上がり、元どおり、二つ折りの髷に形を収めた。もとどりを作法どおりに束ね、結び目を固く絞った。水櫛で後れ毛を撫でつけ、髪はすっかり整った。
「権大夫様、結えましたわ」
 陶子は声をかけた。
「かたじけない、お手を煩わせ申した」
 礼を述べて、義弘は肩ごしに陶子を振り仰いだ。こちらへ向けられた義弘の顔が、驚くほど間近かった。筆で描いたような流麗な眉の一筋一筋、目のふちにうっすらと射した血の色、いくさで受けたのか左頬に細く残る傷痕、このふた月ほとんど毎日のように目に留めながら、心には明確に留めていなかった、そうしたごくささやかな特徴がはっきりと映り、はっと胸を衝かれて陶子は義弘の面輪を固唾を呑むようにして見つめた。こんな時、普段であればすぐに破顔し、戯言など言い出す義弘のはずであった。しかし今、義弘は笑わず、戯言も言わなかった。自分を見つめる陶子と対を成すかのように、陶子の面輪をじっと見つめ返した。
「陶子殿」
 しばしの沈黙と仰視のあと、陶子の目を見つめたまま義弘は低く言った。
「櫛を下さい。今度はわたしが、陶子殿の髪を梳いて差し上げましょう」
「――えっ」
 ぶしつけとも思われる義弘の言葉に、陶子は驚き戸惑った。
 下賤の女ならいざ知らず、身分ある女性にとって、髪の解け乱れた有様を人目に晒すことは考えられなかった。髪を梳き整えているところを父親が見るのも好まれないというのに、ましてや客人に髪を梳かせるなど慎みある女性のすることではない。如何に周防が辺土と言って、大内家は王朝の御世から国衙を治めて来た名家である。その当主たる義弘がそれを知らぬはずはないのに、いきなりそのような無礼を申し出た、その意図をはかりかね、陶子は頬を赤らめ首を振った。
「おたわむれはいけません。権大夫様、わたくしを子供とお思いになって」
「違います。そうではない」
 義弘は言下に陶子の言葉を否定したが、しかし、では何故なのかとは言おうとしない。陶子はますます困惑してひとりで別な言葉を探した。
「はしたないとわたくしが叱られます。もし誰かに見られたら……」
 言いよどみながら陶子はうつむいた。義弘は陶子の方へにじり寄った。まだ膝立ちのままであるため、うつむいた陶子の目はちょうど、義弘の顔をまともに見下ろす格好になった。

                 
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