「もう刻限は遅い。誰も参りませぬ。またたとえ参ったとしてもここには入れませぬ。案じ召さるな」
 陶子の目を覗き込み義弘は声をひそめた。何かいつもの義弘ではないようだった。確かに義弘には少し強引なところがあった。例えば酒の席で、女たちが怖がって悲鳴を上げているところへ容赦もなく、いくさ場での血なまぐさい体験談を語って聞かせては面白がったりしたが、けれどもそれは、あくまで瓢げての上でのことであった。今の義弘は、とてもそうとは見えなかった。ふざけているのではないのに、声音や物腰は普段どおりの穏やかで優しい義弘であるのに、陶子の困惑など歯牙にもかけず髪を解くことを強いるなど、陶子には何もかもが解せなかった。言葉を失って、陶子はただ義弘の瞳を覗き込むばかりであった。吸い寄せられそうに黒く静まった瞳が見つめ返していたが、その漆黒の中に何かを読み取るには陶子は若過ぎた。
 陶子の戸惑いはそのままに、義弘は陶子の手を取ってその場に座らせた。長い腕が伸びて、体をすっぽりと抱きかかえるような格好で義弘は陶子の背に両腕をまわした。頬が迫って額に体温が羽のように触れた。雨音がいっとき、耳元に高くなり、そして遠のいた。ゆっくりと、義弘が体を離した。手に鴇色(ときいろ)の元結いがあった。解かれた髪が、崩れ、背の上に広がった。通り過ぎる五月雨にも似た、かすかなすれ音がした。
 義弘が櫛箱を引き寄せた。梳櫛を取り、陶子の髪にあてた。頭頂に整えられた仄白い分け目を源泉に、黒髪は頬をふち取って肩に落ち、そこからふくよかな湾曲を見せて背中に下りている。室内にはさほど明るいとも言えぬ灯明が一台据えてあるきりで、しかしつややかな髪はその薄明かりを充分過ぎるほど吸い、星雲のような仄かな光を一面に纏っていた。
 丸く削った櫛歯が地肌を心地良く掻いた。櫛は耳をかすめ肩に落ちて止まり、義弘はそこで櫛を手前にたぐった。背の上に流れていた髪が掻き寄せられ、胸元に落ちた。もう一度、櫛があてられた。櫛歯が地肌を掻き、耳の後ろを通って肩で止まり、そして新たな髪が胸に落ちた。
 髪は頭頂より一途に流れ落ち、膝の上で柔らかにうねってよどみを作っている。おもてには光がさざなみ立ち、あたかも無音の世を流れる滝のようであった。黒色の流れに、義弘は手を浸した。掌に受け、すくい上げると、髪は広がって掌からこぼれ、義弘の腕をつたった。手首から肘に向かって肉が盛り上がり薄青く血脈が透いている、その逞しい腕に黒髪の藻草はしどけなく絡みつき、黒い血の流麗な線を彩った。黒髪の闇の下に、白い肌と青い血脈とが冴え冴えと映えた。
 髪が腕をつたい落ちるのも構わず、義弘は掌に残った髪に櫛をあて、胸元へたぐり寄せるようにして毛先へ櫛を流した。髪は織り出された黒絹となって櫛に導かれ、そして櫛歯が抜けると共に、壊れた夜の闇のように、また胸の上になだれ落ちた。何もかも、義弘の為様(しざま)は逆しまであった。髪を梳くのならば義弘は陶子の背後に座るべきであった。そしてそもそもの流れに逆らわぬよう、背中へ向かって梳き流すべきであった。そうであるべきなのに、しかし義弘は陶子と向き合わせに座り、胸の方へ梳き捨てながら、先程までは梳き直すまでもなく結い整っていた陶子の髪を櫛でもってわざわざ乱しているのだった。その奇異を、しかし陶子は咎めるでもなかった。義弘もまた詫びるでもなかった。いつしか、陶子は両の肩から乱れ髪を黒衣のように纏い、しかしさみだれ髪に乱れてなお、陶子の髪は薄闇の中に美しかった。そして陶子と義弘の他には誰ひとりおらぬこの部屋に、二人の有様を見咎める目はなかった。
 義弘の手がふと伸びた。額の生えぎわから目の上にほつれていた後れ毛を、そっと掻き上げた。耳に、くぐもったすれ音がした。磨いた瑪瑙のような爪がこめかみに触れて、陶子はかすかに息を呑んだ。まつげが震えた。頬が汗ばみ、一瞬、香気が、陶子の肌から匂い立った。仄かに甘く、一点の涼しさを含んで、梅花を吹き抜ける寒風の匂い。義弘の髪に漂ったのと同じ、それは琥珀香の匂いであった。
 琥珀香というその甘美な名を、陶子は義弘に教わったのだった。その日、例の如く義弘の部屋の文机を借り、陶子は晩春の吉野の景色を詠もうとしていた。やがて一首を作り上げ、陶子は歌の出来たことを傍らの義弘に告げた。
「左様、ここは吉野山、ではなく、み吉野の、の方が、耳に柔らかくてよろしいかと」
 背後から机の短冊を覗き込んでそう言いながら、いつもは短冊を手にとって直しをするのであったが、義弘はその時何故か陶子の肩ごしに添削の筆を伸べた。衣が触れ合い、体温がふわりと背にかぶさると共に、何かの馥気(ふくき)が漂って、陶子は思わず、義弘の顔を仰いだ。
「香りが致しますわ」
 つられてこちらを見下ろした義弘の黒いまなざしから、澄んだ香気が葉末を転がる玉露となってこぼれるような、そんな感じを抱きながら、陶子は言った。
「良い香り。伽羅でしょうか」
「ああ、髪につけた香油でござろう。唐のものにて」
 琥珀香、と、義弘はあまり耳慣れぬ名を言った。
「コハクとは、石の琥珀ですか」
 不思議そうに陶子が尋ねた。琥珀は日本でも古くから香として薫かれているが、義弘の言う琥珀香とは薫き物ではなく、琥珀から採った香り高い油のことであった。
「でも、木や花ならともかく、石から香料が採れるのですか。絞るというわけにはいかないでしょう」
「実はわたしも製法は存じぬのです。が、琥珀はそもそも木の脂が固まったものにござれば、採れるのでありましょう」
「世の中には不思議なものがあるのですね。ね、権大夫様、その琥珀香というもの、わたくしにも少しつけていただけませんか」
「よろしいですよ」
 義弘は白磁の小瓶を取り出して来た。水瓶(すいびょう)に似た細口の瓶で、繊細な形に唐の匂いが漂った。
「香油は練り香などよりもずっと香りが強うござる。つけ過ぎるとのちのち難儀致します」
 などと注意を促しつつ、口を開け、陶子の手を取って掌に一滴、たらした。馥郁たる香気がたちまち、泉のように湧き上がった。陶子の知っているどの花ともどの香木とも、その香りは異なっていた。清らかに深く、例えようもなく高貴な香りだった。そしてその鮮やかさ。わずかに吸い込んだだけで香気が身の隅々までもを浸すようで、陶子は浄土に咲く幻の花を眼前に見る思いであった。香りの広がった両の掌を陶子はすり合わせてみた。香油と言うものの肌触りはむしろ水のようにさらりとして、そして肌の温みや汗と感応するのか、手をこするにつれ、琥珀香の香りは雲のように種々に変化した。
「楽土に住まう天女の肌は、きっとこのような香りでございましょうね」
 陶子は目を閉じ、うっとりとした吐息を唇の間に洩らした。
「天女の肌とは、これは陶子殿も艶なことを申される」
「この世の憂さ辛さに穢されたことのない女性でございますもの。この香りはそういう者にふさわしゅうございますわ」
 掌で頬を包みながら陶子は答えた。目を閉じ唇には三日月のような柔和な笑みを浮かべ、琥珀香の馥気に導かれて陶子自身が楽土の天女に変じたようであった。
「お気に召したのであれば、これは陶子殿に差し上げましょう」
 口を元どおり固く閉め、義弘は陶子の手に小瓶を握らせた。高さは三寸ほどの、手に隠れそうに小振りのものながら、胴には一面、丹念な細工で唐花の浮き彫りが施され、乳白色の釉がしっとりと肌になじんだ。
「でも、珍しいものなのでございましょう? いただいてしまってよろしいのですか」
「気になさらずに、お受け取り下さい。――女の方が使うには、少々香りが堅いかもしれませぬが」
 ――それが、四日前のことであった。そしてその、義弘よりもらった琥珀香を、陶子は今夜ここへ来る前に密かにこめかみにすり込んで来たのだった。指を上げ、義弘は再び、こめかみの後れ毛を小さく掻き上げた。指先はそのまま陶子の髪の中に遊び、躊躇のような、逡巡のような、緩慢な仕種を繰り返した。指がひと梳き髪を掻き上げるごと、琥珀香は夜の記憶のように肌からほとびて匂い立った。
 義弘は陶子を見つめ何も言わなかった。陶子には、元より言える言葉はなかった。ただこちらを見つめる切れ長の目の、目尻に射した血の赤みを、瞳の黒さを、その中に映る自らの影をじっと見つめた。義弘の髪に未だとどまる残り香と、陶子の肌に鮮やかに匂う香りとが、結び合い、狭霧となって二つのまなざしを繋いだ。

                 
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