雪 梅

暗碧の空から花冷えが深々と降りて来るような春の夜だった。山口大路に立つ大内館の居間に、周防の国主、大内義隆はひとり時を過ごしていた。寒夜のことで、傍えには火桶が据えてある。濡れたような黒漆に見事な螺鈿の施された火桶だが、義隆はしかしそこに体をもたせたきり、薄闇に真珠色の光を放つ花鳥には眼をくれようともしなかった。彼が見入っているのは、炭火の上に所在なさげに翳された己の両手であった。手には赤い炭火が女人の紅の鮮やかさで映っていた。ゆらゆらと手を翻すとそれにつれ火の色は流血のように身をくねらせて肌を這い、または指の間を小刻みに飛び交った。義隆はその様をぼんやり眺めていたが、やがて細いため息を洩らした。炭を覆っていた白い灰がぱっと舞い上がり、一瞬、赤々と熾った火が彼の倦み疲れた虚ろな頬をありありと照らし出した。彼はもう、かれこれ二刻近くもこうやって指先ばかり眺めて過ごしているのだった。そうして過ごすふとした折節に、気晴らしに酒でも命じようかと、そんな思いつきが意識に上ることもある。または、読みかけてある書物を開こうかとか、いつか即吟して放ったままになっている詩に手を入れてみようかとか、そんなことを考えたりもする。しかし、それらの思考は意識のおもてに浮かんだと思ったそばから皆泡のように割れ、結局義隆の心は再び重く粘ついた無気力の中へと戻るのだった。
 今夜のような、倦怠の模糊とした泥の中をさ迷うのみに費やされる夜は、義隆にはもはや馴染みのものであった。この数年彼を悩ませている、重い気鬱の病のためである。主の身を案ずる家中の者たちは、病の原因について陰で種々の憶測を囁き合っていたが、やはり晴持様を亡くされたのが大きいのであろうというのが、大方の声であった。晴持とは義隆の姉が土佐一条家の房冬に嫁して産んだ子で、男子に恵まれなかった義隆は請うてこの甥を養子とし、手元で養育していたのである。名門の貴種に相応しく容色に優れ文武に秀でた貴公子に成長した晴持を義隆は溺愛した。しかし、ゆくゆくは嫡子として家督を譲るつもりであったその矢先、義隆に従い出陣した出雲で、晴持は海路撤退中、揖屋浦の沖で難に遭い、不帰の客となったのだった。六年前のことになる。
 うなだれた頭を両手で抱えるようにして火に見入っていた義隆はふと顔を上げた。雪が降り出したように思ったのである。季節は既に春であったが、この年の周防はいつまでも冬の気配が去らなかった。野には梅がほころび沈丁花が咲いているのに、かげろうのような細雪は時折思い出したように舞い戻り、山野を白く染めるのだった。義隆は耳をそばだて戸外を窺った。雨ならば雨音がする。風ならば草木のざわめきで分かる。しかし雪は、物音が急に影を潜めるせいでそれと分かるのだった。果たして外は水を打った静けさが覆っている。静寂はあちこちの隙間からひたひたと部屋に入り込み、身を押し包むようであった。その音なき音に黙然と耳を傾けるうち、義隆の胸にとある説話が思い起こされて来た。それは誰が語ったものであったか、雪に閉ざされる北辺の地では、雪の降りしきる野辺を死者の声が渡るというのである。
「かように静まった雪夜ならば、成程この世ならぬものの声がしても不思議はないかもしれぬ」
 つぶやいて、義隆はふらりと立ち上がった。と言って、彼は死霊の声を聞きたいと思ったわけではない。ただ、この重苦しい倦怠とこのまま付き合うよりは、まだしも雪の中をうろつくほうが、気が紛れるような気がしたのである。履き物を命じ、彼はひとり庭へ出た。既に雪はだいぶ降り積もっていた。植え込みの木々も、石組みを盛り上げた築山も、樹木の陰に身を隠すように佇む灯籠も、何もかもが白々と埋もれ、その中に、瓢箪池のみなもだけが、果てもない奈落のように口を開いていた。黒く沈む池泉を挟んだ向こうには、あたかも池の水が突き上がったように大きな影がうずくまっていた。それは、幹はふた抱えもあろうかという、梅の古木であった。幼い折に義隆が聞いたところによると、この梅は、元は山口郊外のとある山中に立っていたものを、義隆の父義興が枝振りをたいそう気に入り、館を造営するにあたってわざわざここまで運ばせたというものであった。樹齢は、三百年と言う者もあり、それ以上と言う者もあり、兎も角も、人の上を流れ得るよりも遥かに長い時を見つめて来た木霊の住まうに相応しく、巌の如き巨躯から重々しい枝を天を掴むように張り出し、季節にはその一面に、白浄無垢の花衣を纏うて立つ姿は、美しいよりもむしろ荘厳であった。
 池畔を回り、義隆は木の根方に雪を避けた。樹下は花の香りが吹き溜まったように濃く、頭上を埋める白い花弁のせいか不思議に明るかった。地面にごつごつと張った根の、ちょうど瘤のように盛り上がった所へ義隆は腰を下ろした。雪は義隆が木陰に逃れたのを見澄ましたかのように数を増し始め、やがて白い帷(とばり)となって彼を取り籠めた。庭の景観や夜の中に大きくうずくまった館の影や、未だ館に起きて立ち働く人々の声や、それらは皆帷の向こうへ遠ざかり、彼の周りには、舞いしきる雪と、雪片が落ちる静かな音と、それから清かに香る梅花の香りのみが残された。それはあたかも人の世から遠く見捨てられた異界であった。人の交わりもなく時の移ろいもなくただ沈黙のみが流れて行く。その生を拒むかのような静寂が快かった。幹に背をもたせ、この奇怪な安寧を詩に吟じてみたら面白いかもしれぬと、そんな思いつきが胸中に巡ったその時、頭上に小さく、笑いさざめく女の声がした。
 ぎょっとして、思わず腰を浮かせかけた義隆であったが、しかし驚きはすぐに口元の苦笑に取って代わった。何のことはない、よくよく耳を澄ませば、女の声と聞こえたそれは、ただ雪の音であった。夜と共に深まる寒さにいつしか降る雪は硬く凍てつき、時折吹きつける風にあおられて館の屋根や壁、または木々の枝葉を打ってとりどりのささやかな音を立てる。その音の幾千もが織り合わさって、ふとしたはずみに人の声の如くに聞こえるのだった。雪原を渡る死者の声とはさてはこういうことであったかと、義隆は何となく興ざめた思いがした。もう部屋に戻る頃おいかと立ち上がりかけたが、しかし戻ったとて、いつもの退屈な長い夜があるばかりと思えば、そのまま雪の中を館へ戻る気にもなれなかった。結局、思い返して義隆はまた腰を戻した。
 耳元を雪の音が砂子のように流れて行く。立ち上がると共に束の間静まっていた頭上の笑い声は、義隆が座り込むと再び、湧くように周囲に満ち始めた。目を閉じ聞くともなく耳で追うと、若い娘たちが頬を寄せて語らうような華やかな笑声、今にもその声音や語る言葉までもが聞き分けられそうで、仕掛けが分かったつもりでも聞くほどに不思議な心持ちがする。吹き抜けた風に木々が一斉にざわめいたと思うと、まるで葉音が変じた如くに、目の前の雪の上を、童子が駆けるような細やかな足音が、続いて、打掛の裾を引くたおやかな衣擦れがさわさわと行き過ぎた。
 ――お待ちなされ……
 ――これへ、これへ……
 目を閉ざした耳元に声がする。雪の向こうには大勢の人々が飲み騒ぐ賑やかな声がしきりに聞こえて来る。宴の中から誰かが笛を取って奏で始めた。曲は分からぬが、奏でる音が美しい。銀箔を震わすような、冷たく冴えた音がする。風がふと、梅の枝を揺すり、花の香を振るい落しつつ去った。笛の音は梅花の香りと共に山野を越え地の果てへと吹き渡る。長く引く笛声の尾を辿って歩む足音がある。一足踏む、その度に梅花が匂って散る。足音は赤い影を引いている――。
 ざぶりと池の水が波打ったような気がして、義隆ははっと我に返った。気がつけば辺りは何事もなかったような静寂が戻っている。たった今まで庭を満たしていた笑い声も宴の賑わいも笛の音も皆夢の向こうに消え失せ、落ちる雪より他には聞こえる音とてない中に、荒涼とした静けさがひそひそと広がっていた。雪だけが変わらず降り続いている。雪は義隆が宿っている梅の木を取り巻いてどこまでも降りしきり、何処か人の世から遠く離れた彼方へと義隆を押し流していくようであった。
 静寂の中、ふと義隆の目が揺れた。両の瞳が波のようにふらふらと揺れ、それから凝したように一点に吸い寄せられて止まった。義隆の眼前は降る雪に白い。足元は降り積もった雪に白い。頭上は咲き誇る梅花に尚更白い。この世の影という影の悉く白く染め尽くされた中、花叢の下に、降り籠める雪を負うて佇む人影がある。烏帽子の下に涼やかな切れ長の目をこちらに向けるその人影は、今しがた義隆の閉じた瞼の裏に映じた姿そのままに、緋縅の鎧を纏っていた。
「晴持、……そなたであったのか」
 咽から絞り出すように、義隆はその名を呼んだ。自分の声がひどく遠くに聞こえた。胸中には恐れも驚きもなかった。雪降る野辺には死者の声が聞こえるという、自らをここへ導いたその説話を再び思い起こし、今宵花の下にこうして晴持の魂と再会することを、自分は心の何処かで知っていたのではあるまいかと、そんな事を考えた。ちょうど夢の中にいる時に似て、ひどく朦朧とした意識と、ひどく明瞭な意識とが、身体の中にきれいに並んであるような心持ちだった。もたれていた梅の幹にすがって、ゆっくりと義隆は立ち上がった。雪のせいか、病のせいか、足元がふわふわと頼りなかった。立ち上がると、一間も離れていると思った晴持の顔が、すぐ目の前に見えた。少年の頃の柔らかさをわずかに残した白い頬が見えた。黒く濃い眉と、赤々と笑む唇が見えた。鎧の縅毛の緋色を映して面輪の上に隈取った薄紅の陰影が、頬の白さと唇の赤さとを際立たせていた。鋭いまつげにふち取られた、黒瑠璃の瞳の上には義隆自身の姿がきれいに映っていた。雪明りの薄暗い中であるのに、印象の一つ一つは染付けたようにはっきりと目に見えた。
 手を上げて、義隆は晴持の頬に触れた。快い温もりが、吸いつくような肌から冷えた掌にかよって来た。身体にも触れた。しなやかに張った筋肉に、若々しい血の火照りが急くように脈打つのが、鎧の上からでも手に伝わった。死んだのは夢であったのではあるまいかと疑(うたぐ)れば疑れる程に、目の前の晴持は生前と毫も変わる所がなかった。ただ、身を覆う鎧が絞るばかりに濡れそぼり、肩あてや草擦のふちから水滴がぽたぽたと音を立てて地面に滴っているのが、異様であった。義隆は袖口を掴んで鎧を拭った。しかし幾度やってみても、鎧は乾くどころか水を拭い取ることすら出来なかった。触れれば指先には確かに水の感触があるのに、その水は義隆の袖に染み入ることを悉く拒み、晴持の身体ばかりを無情に濡らして伝い落ちるのだった。滴る水には生臭い臭気があった。何かが腐りかけたような、凍るように冷たい臭いだった。海の水ではないかと義隆は気がついた。出雲の海の水であろう。あの揖屋浦の水底に、晴持の体は未だに横たわっているのだと思った。
 蕭然として立ち尽くす義隆の耳に雪の音が迫っては去った。雪の中に永久(とこしえ)の沈黙をたたえて晴持の姿が絵のように浮かんでいる。形良い顎を傾げて引き、下瞼を心持ち押し上げて笑んでいるその表情の奥に、薄い玻璃質を思わせる、儚いような、脆いような影がよぎった。人をじっと見つめる時などに、晴持は時折このような表情を浮かべることがあったと、不意に義隆は思い出した。それはほんの些細な記憶に違いなかった。しかし些細であるが故に、かえって匂い立つような生々しさと、吹き上げるような急激さで、脳裏に上って来たのだった。義隆は全身の息が一度に詰まるように感じた。懐かしさと、愛おしさと、それから恐れがそこにはあった。たとえ愛する者の記憶であろうとも、その鮮烈さが心の底に沈んでいた澱をいたずらにかき立て、新たな悲痛となって牙を向けることを、彼の疲れ果てた精神は厭うたのだった。咄嗟におののいた義隆の心を映した如く、その時、それまで晴持の瞳にくっきりと映って見えていた義隆自身の姿がぐらりと崩れた。晴持の影はその輪郭も色彩も未だ絵のように明らかである。ただ、瞳の中の義隆だけが、みなもに石を投じたように揺れて砕けた。はっと晴持の目を覗き込んだ視界を、はらりと散った白い花弁が覆い隠した。四方から花の香がいちどに押し寄せた。


 そしてどの位の空白が流れたのか、再び開いた目の前に、晴持の姿はなかった。いつしか雪の帷は晴れ、雲間より霏霏と降る月の光の下、蒼い影が藍を流したように地を這っていた。茫漠とした心持ちのまま、義隆はその光景を眺めていたが、ふと息を飲んだ。足元の地面を、夥しい数の花弁が、雪と見まごうばかりにうずめている。驚いて梢を見上げれば、たった今まで樹皮も見えぬほどに咲き誇っていたはずの荘厳な花衣は悉く剥がれ落ち、梅は義隆の傍えに、見る影もなく老いさらばえた裸木を晒しているのだった。この世ならぬ思いに打たれ、義隆は地面に蒼白く散り敷いた花叢を、声もなく見つめた。その周りに、降り積む雪は月明かりを受け、笑むような瞬きをただ、静かに、果てもなく繰り返す。見つめるうちに義隆は、晴持の魂を束の間この世に呼んだのは、この古梅ではなかったかと思った。彼は腕を伸べ、下枝の先に一、二輪、ほろほろと散り残った花を、手の中に折り取った。

―了―
                    
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