遠 音

 ふとこぼれかかった葉影の冷たさに誘われて、とよは両手を頬の上に置いた。なめらかな肌は、路傍に終日座りつめた疲労に火のように熱い。火照りを冷まそうとするかのように、とよはそのまま掌で頬をさらさらとこすった。市を忙しく行き交う足音の間を巧みに縫って、時折通りの向こうを流れる川から風が緩やかに顔に当たる。ぬるいような水の臭気と、青臭さの幾分落ち着いた草の香りが身の周りに鮮やかに立って、秋草の生い茂る川端の光景が、とよの見えぬ目にも浮かぶような心持ちがした。
 永興寺の門前には月六度、三と八の日に市が立つ。今日は十三の市の日であった。日々おちこちの市を回り手づくねの饅頭を商って、とよは暮らしを立てている。往来の端に、茶売りや古着売りといった商い人の間にまじって筵を広げ、春には例えば蕗、夏には例えば韮の野菜餡を詰めた菜饅頭を売るのである。この商いを、とよは同じく饅頭売りをしていた母から教わった。目の不自由な娘が一人でも生きていけるようにと、母は、菜の煮方、粉のこね方から市での客寄せ、銭の勘定まで、幼いうちから手を取って根気強く、とよの体へ覚えこませた。とよもまた、母と二人で市に通った二十年近くの年月においても、そして一人きりで市に座るようになったこの一年余においても、母から教わったことを寸分も変えることなく、忠実になぞって日々を暮らして来た。そんなとよの毎日は、いきおい、判で押したような単調の繰り返しになりがちであったが、そのことをとよはどう思うわけでもない。ただぼんやりと、日々の暮らしなど変わりばえせぬ方がよいのだと思っていた。自分のように身体の不自由な者にとっては、身の周りにも、己の心にも、変化の生じぬのが幸せの証しなのだと、見えぬ目は、若い身体に似合わぬそんな老けた諦観を、いつかとよの中に植えつけていた。
 秋も深まったとは言え、顔にまともに照りつける陽光は未だにじりじりと熱く、とよは額にうっすら滲んだ汗を、つまんだ袖口でおさえた。とよを一人置き捨てて、通りには人々の足音や声がひと塊の喧騒に混じり合って目の前を流れ過ぎて行く。乾いた滝川の渦巻くようなその漠然とした喧騒の中に、物乞いの叩く鉦の音や、シキミ売りの運ぶシキミの強い匂いが、ふとしたはずみにくっきりとした輪郭となって浮き上がり、水流の中に魚が唐突に水音を立てる様を思わせた。
 ここ周防岩国は、少し前より大内家の筆頭家老、陶晴賢が先鋒を率いて陣を置いていた。隣国安芸の毛利元就との戦にあたり、攻略の足掛りとするべく、先だって毛利に奪われた海上の拠点、厳島の奪還のため、岩国にて兵の集まるのを待ち、水軍の整うのを待っているのだとは、とよも聞き知っている。兎も角も、一万とも言われる陶軍の駐留で、岩国や近在の市はにわかな活気を見せているのだった。とよの今座っているこの市も、総大将陶晴賢が本陣を置く永興寺の近くであるせいか、人の行き来の賑わしいことはひと通りではなかった。
 沸き立つ雑踏から足音が一つ、こちらへ分かれたと思うと、汗を拭うとよの前に客が立った。「饅頭を二つ呉れ」若い声に混じって草摺の擦れる音がして、客は侍と察せられた。掌に乗せて差し出すと、侍はそれをさらい、空いたとよの手を無視してわざわざ膝の上へ銭を放ってよこした。ばら銭は膝に当たって弾け、たちまちそこらじゅうに散らばった。客のこのような心無い為様は別段珍しいことではなく、とよは驚きも憤りもしなかったが、ただ往来の著しい喧騒に掻き消されて、何処に銭の転がったものか音を辿れなくなったのは困った。仕方なく、その場に四つん這うようにして筵を丹念に撫で探っていると、
「その者は目が見えぬのではないか」
 急に上の方から大きな声がした。周囲の騒音を切り払って耳に真っ直ぐ飛び込んで来た声に、とよはびっくりして身を起こした。
「銭を拾って渡してやれ。町の者に無体を働いてはならぬ」
 恐らくは馬上より、声は続けて言った。張り切った琵琶の糸を隆隆と打つかのような底力のこもった声であった。その、辺りを圧せんばかりの大音声が山颪のように頭上に次々と落ちて来る恐ろしさに、とよは思わず筵の上に縮こまった。そうやってじっとしていると、声が小さく聞こえて、今しがたの侍が戻って来た気配がした。そこらを忙しく動いていたと思うと、急に手首を掴まれ、掌に銭が押し込まれた。馬上の声はこの侍の主であったのだと、とよはようやく思いあたった。市を通り抜けるうちに饅頭屋が目に止まり、御供の家来衆に命じて求めさせたということに違いなかった。そんな想像をしているうちにも、少し離れた所で馬首をめぐらすたてがみの音がして、蹄が地を踏みしめてゆったりと歩み出した。とよはそちらへ首をねじり、武者の騎馬で歩み去って行くのを耳で送った。蹄の音は耳に明瞭に、しかしすぐに形を崩し、同時に市の喧騒が満ちる潮のようにとよの前に丈を伸ばして、馬の足音も家来衆の鎧の音もやがて皆呑んで行った。

 それからさほど時を置かずに饅頭は売り切れて、とよは筵や饅頭を並べていた木箱を小櫃に収めてそれを負うと、日の傾きかけた市を後に帰路についた。雑木林に囲まれて軒を集める二、三の村落を行き過ぎると、あとは広々と開けた野原がひたすらに続くばかりとなる。広野を貫く一本道をとよは熱っぽい夕日に背を押されつつ歩いた。辺り一面に茂る茅萱のさやさやと寄せる囁きの他に聞こえるものは絶えてなく、時折、手にした盲杖が道の小石を偶然に弾く、こつんという乾いた音が響いた。とよは母に伴われての市への行き帰り、幼い頃よりほとんど毎日のようにこの道を通った。野面を一面に覆ってうねる茅萱の葉叢に、母はよく海のようだと楽しそうに言った。とよは海を知らなかった。けれどものちに何かの折に海辺を訪れた際、漣の遥かに遠くからざわざわと寄せ来るのを聞いて、海とは確かに萱の原に似ていると思った。母はまた、道の辺の茅萱の変化を見つけては、それをもってとよに季節の移ろいを知らせた。初夏になると「銀の穂が出た」と言ってなめらかな若穂を摘み頬をくすぐった。盛夏を迎えると「葉叢が青うなった」と言って草いきれの立ち昇る中に立ち止まり、とよと二人草の波音を聞いた。そして冬には「萱の葉もすっかり赤うなった」と言って背丈のすっかり縮んでどことなく鋭さも鈍った葉を手に触れさせた。それが年ごとに繰り返された。とよの暗い目は色彩というものはおよそ思い浮かべることすら出来なかった。けれど母の繰り返し口にした銀、青、赤の三つの彩りだけは、漠としながらもとある一個の印象を成して、心の底を染めた。
 家に着いて夕餉の粥を煮ていると、日はじきに暮れた。手鍋の底で華やかにはぜる炎の虚を衝いて背にひたと忍び寄った冷ややかな気配に、とよは日の落ちたのを察した。ただでさえとよ一人きりの寂しい家の中が、水にくぐったように一段と静まった。手鍋を火から下ろし、冷ます間とよはつと立ち上がって切り窓の傍に立った。日が地の下に吸い込まれ闇が満ちて来るこの夕暮れのひとときが、とよには昔から怖いものであった。夜を迎えた世界は急速な沈黙に侵される。それがとよには、陽光の下で楽しくはしゃいでいた草木や生き物が、夜の気配に悉く蒼ざめ口をつぐんで、何処かへさっと逃げ散ってしまうように感じられる。あたかも、悪戯が見つかり一緒に遊んでいた者は雀の散るように駆け去って、けれどもとよのみが彼らの背を追えずに、静まり返った不安の中に置き残されるような心細さがあった。顎を上げてとよは切り窓から空へ顔を向けた。種々に色を変えて暮れなずんで行く夕映えや、つるりと冷たい月や痛いように瞬く星や、そんな夜の景色がもし見えたならば、これ程に寂しくはないであろうにと、天を仰ぎながら儚い願いを浮かべた。
 いつしか遠くを茅萱の葉叢が鳴っていた。日の暮れると共に立った夕風が野を騒がせるのだった。しかし風向きの按排なのか、すぐ軒先のけやきの枝はそよとも揺れなかった。とよの耳は自然と、萱の原の遠音へと引きつけられた。葉音は川底の砂子のように野をさらさらと流れた。と思うと時には雨足のようにこちらへ向かって滑って来た。がそれはいつもとよの元までは辿り着かなかった。皆途中で薄らいで消え、そして音の途絶えたのちには、時の止まった静寂がしんと辺りを覆った。その遠い葉音の中に、ふととよは、今日市で会った騎馬武者の声を聞いた。あれ程に恐ろしいと思ったその声であったのに、今風に紛れて不意に耳元に立ち現れた武者の声は、何故か荒々しい語調や声音の激しさや、そんな鋭さは洗われたように欠け落ちて、長く尾を引きつつ絶えていく楽音にも似た、柔らかな余韻となって心に思い起こされるばかりであった。夕風が草叢を幾度となく揺らしては過ぎ、その度とよの耳は、その向こうに一度会ったきりの人の声を聞いた。静けさが細く匂い立って、胸に迫るように思われた。

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