十八の市が巡って来た。とよはまた、永興寺の門前に商い人となった。通りの、のぼせたように賑わしいことは相も変わらなかった。人波は揉み合って流れるうちにしばしばおのずから形を崩し、とよの背や肩に幾遍ももたれかかっては歩む足元をよろめかせた。人混みの内に鎧やら打ち物やらの鳴る音が耳を引くことに、とよは今更のように気がついた。岩国には陶の軍勢が駐留しているのだから侍が数多いのは当然だが、とは言えこの間来た時はこれ程侍が目立っていただろうかと、数日前の十三の市の様をとよが耳の中に辿っていると、隣の筵に立ち寄った男が折り良く、この二三日で兵馬の数が目立って増えたから、出陣は間近いに違いないという話を商人と始めて、とよの想像をはからずも裏付けてくれた。
 溢れるほどの人出のために空気は澱んでいた。行く人の声を聞くに、今日は目の裏が洗われるばかりの晴空が澄み渡っているそうなのだが、秋空のからりとした爽涼の恩恵は、地面までは降りて来ないものらしかった。立ち込める人いきれは一本の藁苞になってその中にとよを押し包むかのようだった。いきれには干魚の磯臭いにおいが一筋、それと空風の抜けるようなしゃがれ声が一筋、混じっていた。少し離れた場所に目籠を置いているその干魚売りの老女のことは、口をきいたことはないものの、とよはよく知っていた。老女が客相手にしていた四方山話によれば、この媼は若い時分に良人も子も亡くしてしまい、以来、日々市へ干魚を担って細々と暮らしている孤独な身の上であった。この齢になると、あと愉しみと言えば死ぬことばかりじゃなどと言って客と笑っているのを聞いたこともある。老女に市で出会う度、とよはいたたまれない気持ちに駆られた。それは老女の境遇に同情を寄せてのことではなく、こちらもまた頼る者の誰ひとりとしてない我が身の、老いてのちの行く末が彷彿とするためであった。毎日朝夕に一椀ずつの粥を口にできさえすればそれが満足の全てであると、そういう思いで自らを鎧って生きているとよではあったが、本当は身体の奥にいつも細波立っている心細さと寂しさとが、この時ばかりは肌の上に滲み上がって来る思いがするのだった。
 魚の臭いとこよりになって時々聞こえてくる老女の声を頭の隅に聞きながら、去来する様々の思いを胸の内にぼんやりと追いかけていたとよの鼻先に、ふわりと風が動いた。
「饅頭を貰おう」
 はっと、とよは息を呑んだ。その声は、数日前馬上から饅頭を買ってくれたあの武者の声であった。あの夜、茅萱の葉は遠くにいつまでもささめくことをやめず、とよは寝つかれぬ夜を過ごした。武者の声と草木の柔らかに騒ぐ葉音とは、とよの中で互いに腕を絡めて印象を分かち合い、耳に残る空音は、葉叢の揺れる木の下陰を歩む度ごとに、あの夜野面を渡った葉音へ、そして更に市での記憶へと長く糸を引いた。その空音の主が全く突然に目の前に現れたのだった。とよは咄嗟にひどく戸惑い、戸惑うあまり、今しがたの声もまた自分の耳だけが聞いた空音ではあるまいかと、返事も忘れて声のした方をじっと窺った。
「この間の饅頭は思いの外美味かった。また食いたいと思うて寄ってみたのだが。残っておるか」
 一瞬の沈黙ののち、再び声がして、とよは我に返った。狼狽に時を止めていた心が動き出し、雑踏の喧騒や、地表にこもった熱や魚の臭いが堰を切って五感になだれ込んだ。
「――かたじけのうございます。まだ、幾つも残っておりますから……」
 ようやくのことでそう答え、被せてあった菰を取り除けると、指先にひんやりした空気が触れて来た。厚く被せた菰がいきれを遮ったおかげで、饅頭の皮はまだ家を出た時の柔らかさを保っていた。
「あの、幾つ、差し上げましょう」
 とよが尋ねると、
「うむ。そうだな、三つばかり貰おうか」
 武者は答え、答えながら草履をにじらせて筵の前に屈み込んだ。屈んだために声は急に間近くなった。武者の声は相変わらず、琵琶の太糸を音高く打つかのような圧力を持っていたが、とよはもはやそこに恐ろしさは感じず、代わりに静やかな重みと、なめらかな柔らかさとを聞くのだった。またとよの耳は、武者の声音の中にわずかに高く掠れた音の混じっていることを見出した。咽喉を病んでいるという風ではなく、もともとそういう声であるらしかった。最初に会った時にはまるで気づくことのなかったこの発見が、何故ということもなくとよには嬉しく思われた。
 箱から饅頭を取って差し出すと、武者は手を伸べ受け取った。受け取るはずみにこちらへ身を乗り出したとみえ、引き締まった汗の気配がふと迫って頬を掠めた。肌身に染み入るような薫き物の匂いが後を追った。武者は傍らへ低く声をかけた。これをと言うのが聞こえて、脇に控えていた従者の手に饅頭を預けたようだった。香気が再びふわりと動いたと思うと、膝に置いていた手に武者の手が急に触れた。肉づきの厚い大きな手がそのままとよの手を掬い上げ、掌に銭が乗せられた。とよの手がすっぽりと収まってしまいそうに逞しい手であるのに、肌は、その逞しさとはおよそ似合わぬなめらかさであることにとよは驚いた。鋤や鍬を握らぬ人の手はこれ程にきれいなものかと思った。
 銭を渡してしまうと、武者は膝に力をこめて立ち上がった。くびすを返した足元に向かって、とよは礼を言って深々と頭を下げた。去りかけて、しかしそこでふと歩みを止め、武者はとよの方へ振り返った。
「明日もまた参れ。買うてやる」
 草履の土を踏む音がして、あぶみがからりと鳴った。たてがみが揺れた。小さないななきと、それから蹄が地を蹴って遠ざかった。武者の言い置いた声が、額の上に、優しく触れられたような軽い痺れとなって残っていた。声はやがて降り落ちた雨粒のように額から滑ってそのまま胸の中へと吸い込まれた。掠れ音をわずかに含んだ声音の内に、とよは、細流の木々の下にしぶく冷たさを思った。竹林の野分に鋭い葉を一斉にざわめかせる寂しさを思った。浦波に揉まれる真砂の裸足の指を擦り抜けて行く静けさを思った。薫き物の香りが、武者の去った後を夢の名残りのように長く漂った。

 茅萱の群れは家路を行くとよの周りに葉音を連ねて立ち騒いだ。風は後からとよを追い越して吹き抜けた。野面はその都度葉叢の嬌声が満ち、野路ばかりが下草を払ってその中に静まっていた。目の前に細く長く伸びるその沈黙をとよは足でなぞった。歩む身体の奥には明日への約束が包まれてあった。一筋の沈黙の中を自らもまた黙して辿る身体とは裏腹に、心は両脇にさざめく茅萱の如くに沸き立っていた。胸中が絞るようにせり上がって、その気持ちに背後が闇雲にせき立てられるので、時折鋭過ぎる疾風が肌身を打ちつけて吹きすさんだ時は、むしろ息が抜けて心安まる思いがした。歩む足の間を風が擦り抜けて、腿をしきりに冷たくした。つい昨日までは夜風と言えどもこんなに寒くはなかった。秋が一足深まったのをとよは知った。また季節が巡り時が移ろって行くのだと、そんなことを思い合わせた時、風が脛をひそひそと舐めて過ぎ、とよはふと足を止めて、底に雨気をはらんだような、その怪しげな風の来た方を、眉をひそめて振り返った。
 とよの心に兆した不安そのままに、夜半を過ぎたあたりから一帯は雨となった。それも雨粒のばらばらと落ちる村雨ではなく、この季節には長く引きがちの糠雨であった。明日が気がかりで、とよは寝わらに横たわったまま眠れぬため息を幾度となく洩らした。ようやくうとうとと眠りに落ちたと思うと、風が雨足をひとところに集めて頭上をさっと煽り過ぎる音に耳を覚まされ、雨の未だ止まぬことを確かめては不安をつのらせた。翌朝を迎えても雨は濡れた薄紙の纏いつくように降り籠めて止む気配すら見えず、とよは出来るだけ早く市へ出掛けて武者を待とうという心づもりであっただけに気が気ではなかった。切り窓からおもての様子を窺っては、しきりに気を揉んだ。何もせずにただじっと雨の音を聞いているのが耐えがたく思われて、とりあえず餡に煮る菜を洗い、粉をふるって拵える準備だけは整えたものの、雨の方はあがってくれるような態度を一向に見せなかった。気まぐれに雨足が遠のくことがあっても、四半刻も経つうちにたちまち重たい雨滴がぶり返した。焦燥の中でただ時ばかりが費やされるうち、昼が近づき、午後になり、やがて暮の鐘が雨下をしめやかに伸びて来た。とよは黙って立ち上がり、炉の周りを片づけ始めた。まな板や包丁をしまい、菜はざるに乗せて土間の隅に寄せ、粉は甕に戻した。それから、すっかり片づいた炉端にまた座った。雨の音が戻って来た。雨は、ただとよの頭上のみを目がけて降り落ちるように聞こえた。蕭蕭と注ぐ雨音は、虚ろな静寂を伴って、胸に染み入った。
 よりにもよって今日という日に、地上に雨を恵んだ天の気まぐれが遣る瀬なかった。確かに、今日市に行けないためにとよの困ることは何もなかった。武者もまた、雨天を知り、市が立たぬことが分かったところで、昨日の約束はきれいに忘れてしまったに違いなかった。つまり約束と言ってみたとて、それはとよにとっても、武者にとってもおよそ重みを持たない約束であったが、しかしそうであるからこそ、今日という日はあまりに得難い日であったはずだった。心の内にささやかに灯った願いの火を、何の思慮もなしに吹き消した天の無慈悲が、とよには解せなかった。しかし一方で、とよは何も望まぬべく自らに強いて生きて来た者であった。望んだり願ったりしなければ日々は無事なのだと、むしろ背伸びし腕をかかげればきっと風に吹き倒されるのだと、そう自らに言い聞かせて来たとよであったから、あの武者との今ひとたびの再会を願った以上、その報いとして身を切られる悲嘆の中に落とされることになったのは、至極まっとうな因果であるようにも思われた。とよは両膝を抱くと、膝頭の間に顔をうずめ、声を殺した涙を滂沱と流した。

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