次の日の昼近くなってようやく、雨声は、嘆き疲れて打ちひしがれたとよの姿に満足したように東の方へと去った。もたれていた板壁に日足がさっと落ちて、湧き出るような温もりをとよの背におのずから与えた。切り窓の傍に張り出したけやきの枝にはたちまち小鳥が群れ、甲高いさえずりがはぜ返った。遠くには、既に葉の表から露を払って、茅萱の海原が風を騒がせていた。騒ぐ葉音は常の如くに、隠れたもう一つの音をとよの耳に伝えた。音の影は痛いばかりに鮮やかさを深め、鮮やかなあまりにまるでその人が目の前に居ないことが信じられないような心持ちに、ややもすればとよを惑わせた。とよはじっと耳を傾けている風であった。やがてふと立ち上がると身を翻し、足早に土間に下りた。
 それから一刻半ばかりののち、とよの姿は門前市の道端にあった。とよの前に市はこの日も賑わっていた。丸一日以上も頭上を抑えつけていた長雨の鬱屈がからりと取り払われて浮き足立っているのは、空や鳥ばかりでなく人もまた同じようであった。陽光を浴びた地面は、吸い込んだ雨水を蒸気にして盛んに立ち昇らせた。まだ水を湛えたままの窪みは、牛車の轍が転がり込む度涼しい水音を散らせた。人々はむらむらと昇る蒸気を踏み乱しつつ、泡立つ波のように、渦を巻いてしぶく清流のように、活き活きと動いた。今日は本当ならば市の立つべき日ではなかったが、盛んな人通りを当て込んで多くの商人が集まり市の景色を成しているのだった。そのためであるのか、通りには振り売りの者が普段よりも目立ち、声高に客を呼んでは次々と行き過ぎる喧騒は、賑やかと言うよりむしろ華やかであった。何もかもが浮き立って動いて行く中に、ただとよだけが道の端に佇んで動かない。一昨日に筵を引いたちょうどその辺りに、手には拵えたばかりの菜饅頭を包んだ苞を携え、そうして蹄の歩む音が近づくと、いちいち首をねじってそちらへ面を向けた。こうやって市に出掛けて来たからと言って、とよには何のあてがあるわけではなかった。とよは武者の名を知らない。何処に陣屋を構えているかを知らない。顔は無論知らない。武者が偶然に通りかかり、そして雑踏の中にとよを見つけてくれない限り、二人がまみえることは叶わなかった。とよの願いは、そんなただ一点のか細い奇跡にすがるより他なく、そしてまたすがってみたとて更なる悲嘆が応えるだけかもしれなかった。とよの心はもはや悲しみを恐れなかったけれども、それはとよの強さではなく苦しみの故であった。熱にうかされてたとえ泥水でも夢中に飲み干す熱病人のように、とよは己を焼く苦しみから逃れたいばかりに、追い立てられるまま奈落への投身を試みようとする者であった。
 人の波が運ぶ熱と、地面から立ち昇る蒸気とで、とよの肌は薄く汗が覆ったが、とよは立ち尽くしたなり拭うことも忘れていた。汗はやがておのずから引いた。往来の熱気も幾分か退いたようであった。それは日暮れの近いことを示していたが、とよは、その意味を頭で考える勇気は持たなかった。ただ心身の疲労が急に背に被さった。軽い眩暈を覚えたように感じて、片手を額にあてた時、すぐ目の前の地面で、のみを打ち込むような鋭い音と共に、蹄が踏んばって立ち止まった。
「そなた、この間の饅頭売りではないか」
 蹄の音にはっと一陣の緊張が胸を駆け抜けたのと、声が響いたのは同時であった。
「――あ、殿様」
 とよは弾かれたように顔を上げた。堅いものが込み上げて咽元を締めつけるようで、話しづらかった。
「このような所に立って如何した。商いはもう仕舞いか」
「いいえ、私」
 思わず闇雲に歩み出たために、危うく従者の者に突き当たるところであった。
「あの、一昨日殿様が、明日また来るようにと、そう、申して下さいましたが、昨日は雨で、雨が降って来れませなんだ。けれどもしかしたら今日もここを御通りになりは致しますまいかと……」
 口ごもりながらのとよの話は、武者の高々とした笑い声に遮られた。
「何、それでは、そなたはここに饅頭を持ってわしを待っておったのか」
「あの、左様でございます」
「そうか、それは煩わせたな。すまぬことであった。ならばわざわざ出向いてくれた礼に、茶でも馳走しよう。わしと来よ」
 思いもよらない言葉にとよは驚いた。そのような、と首を横に振ったが、武者はもう「誰か手を引いてやれ」と言い置いて馬の首をめぐらせていた。尾をひと振りして馬は歩き出した。従者の一人が近寄って、困惑するとよの腕を取った。急き立てられるまま、腕を引かれて混雑した通りを馬の後を追ううち、やがて一行が足を止めたのは、構えも重々しい門の前だった。門の両脇には練り塀の長く伸びているのが察せられた。手引きの役は、ここで、門内から出て来た、小姓と言った風情の少年に引き継がれた。今度はこの少年のなよやかな手に導かれて、樹木をとりどりに茂らせた庭を抜け、敷地の一角に設けられた茶室に通された。一隅にとよを座らせると、少年は「ごゆるりと」と言って下がり、とよは一人残された。あまり広くない、しかし立派な雰囲気のその茶室には、落ち着いた暖気が漂っていた。そしてまた、あたかも世の中と切り離されたような静けさも満ちていた。ざわめいていた木の葉がふと口をつぐんだような静けさではなく、始めから音を持たない、いわば光の静寂だった。壁を、土でしっかりと塗ってあるせいだろうかととよは思い、また、まるで暖かな陽光を四角く切りつめたようだと思ったりもした。明かり障子の一角が少し開けてあるのか、時折、さやさやと言う葉音と共に涼やかな風が入り込んで静けさを柔和に乱した。空気が動くと、茶室のどこかに活けてあるらしい花の匂いが、鼻孔に届いた。
 身を覆う温もりと静けさは快かったが、しかし一方で、とよの心中は身体と相反して先程から落ち着かなかった。一つは、通された茶室のいかにも立派で、身の置き所のないためだった。そしてもう一つは、建物や、敷地の広々とした感じ、ここへ辿り着くまでの道のりを思い返してみても、どうも自分がいるのは永興寺であるように思われるためだった。前に述べた通り、永興寺は今度の戦の本陣であり、総大将陶晴賢が陣屋としている。その本陣に下賤の女が入り込んでいては、もしや誰かに見咎められるのではあるまいかと、一人残されてとよは気が気ではなかった。おどおどして待つうちに、ようやくおもてに足音が聞こえ、武者が入って来た。汗を拭き着物を着替えていたらしく、座ったはずみに混じりけのない香の匂いが漂った。それを合図に、茶室の周りは少し騒がしくなった。若い足音が二人来て、とよと武者の前に木皿を置いて去った。若者が下がると、今度は入れ違いに僧侶が、袈裟の穏やかな衣擦れと共に入って来て隅に座った。軽やかに茶を点てまず武者の方へ出し、それからとよにも出し、そして一礼ののち退出して行くと、ひと時の野分が収まったように、茶室にはようやく静けさが戻った。
「遠慮せずともよい」
 二人きりになると、武者はそう言って気さくに茶をすすめてくれた。先程の事柄が気にかかって仕方のないとよは、素直に手を出しかねた。武者はそれをとよの目のせいと解釈した。
「茶碗の在り処は分かるか。手渡してやろう」
「あ、いいえ、大丈夫分かります。かたじけのうございます」
 答えてから、とよは思い切って、ここが永興寺か尋ねてみた。尋ねてみると、果たしてとよの思った通りであった。
「何故そのようなことを訊く」
 唐突な問いかけに武者は訝しげな様子を見せたが、とよが、陶軍の本陣である寺に、自分のような者がいては差し障りがあるのではないかと、それを案じているのだと言うと、
「何、そのようなことか」
 と言って、たちまち笑い出した。
「先程から何やら妙な顔をしておると思えば、左様なつまらぬことを気に病んでおったのか。案ずるな、そなたはわしの客人だ。誰も咎めはせぬ」
「でも、殿様は。お叱りを受けは致しませぬか」
「わしか。ははは、わしを叱る者などはおらぬ。さあ、茶と餅を用意させた。遠慮せずにゆるりと遊んで行くがよい」
 武者は、どこか悪戯っぽい笑いを含んだ調子でとよを慰め、自分から茶碗を取り上げた。とよもようやく安心して、促されるままに清々しい香りを立てる茶碗に手を伸ばし、また傍らに盛られた餅菓子をつまんだ。餅は、手にひんやりと吸いつく塗りの皿にひとくちずつの大きさに可愛らしく丸められ、上にはとろりとした餡がかかっていた。添えられた塗り箸で一つ頬ばってみると、甘味は餡ばかりでなく餅にも加えられてあった。優しい甘みは舌に溶けるそばから体中に染み透るようで、そして餡には何かの花に似た、口中にいつまでも残る良い香りが移してあった。菓子と言えば柿やグミの水菓子か、茅萱の穂のような土臭いものしか周りになかったとよには、目の前の餅菓子の雅やかな味わいはただ驚くばかりだった。茅萱の穂と言うのは、茎から萌え出る前の若穂に甘い味があって、子供らが菓子の代用に摘み取って噛むのである。また一つとよは餅をつまんで頬に入れた。飲み下すのを惜しんでゆっくりと噛みしめると、噛むほどに新たな甘やかさが口中に広がり、頬がひとりでに笑んでしまうのが少し恥ずかしかった。京の天子様が口にするのはきっとこのような菓子であろうととよは思った。または馥郁たる香りの中に、釈迦がこの世に生まれ出た時に天から降ったと伝えられる甘露というものも、とよは思い描いた。
「気に入ったか」
 笑いながら武者が訊いた。とよは素直にはいと頷いた。
「まるで口の中に花が咲いたようで……。美味しゅうございます」
「そうか。そなたの拵えた饅頭も美味いぞ」
 と言って再び笑った。武者の方は餅ではなく、とよの携えた饅頭を茶菓子としていた。身に薫き物すら纏った武者が鄙びた菜饅頭を頬ばり、貧しい身なりのとよが宝玉のような菓子をつまんでいるというのは、端から見れば滑稽な眺めに違いなかった。武者は茶碗を取り上げ茶をすすった。笑いが途切れ、束の間、茶室がしんとした。

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