月 の 手 枕

     千たびうつ砧のおとに夢さめて物おもふ袖の露ぞくだくる
                           ―式子内親王―
  
  
 仮寝の間に、月が昇ったのだ。夜の闇が磨いた鈴鏡。曇りもなく照り映えて、美しいこと。目の前の庭も、瑠璃のかけらのように散らばった月明かりが目に痛いばかり。
 月影とは不思議なものだ。夜半にふと目が覚めて、おもてに月が高く照っていると、こうこうとそそぐ明かりが戸を引き開けてみずとも察せられる。音がするのだ。乳色の月の光が地にそそぐ音。目には見えない細かな銀砂子が降り落ちる、音なき音。
 不思議なものだ。幾ら照りつけたとて陽の光は音をたてぬ。人々がまだ覚めぬ朝まだき、静けさの中耳を澄ましても、陽の降る音など耳に聞こえたためしはない。してみると、月明かりとは月の涙でもあろうか。月の神は女性(にょしょう)であると言う。遥かな天の高み、暗く冷たい夜の世界で、月の女神も心を裂かれ嘆いているのか。
 遠くに響く音。――あれは、砧を打つ音か。……一つ、……二つ、……三つ。あの音に耳を誘われて、わたくしの仮寝は破られたのであろう。……四つ、……五つ、……六つ。静かな夜だこと。砧の遠い打ち音の他には何の音もない。人の声も、そればかりか夜鳥の声、虫の鳴き音すらもない。宵のうちはそれでも、縁近くの藪に松虫がしきりと鳴いていたのだけれど、その小さな友は、心を寄せたわたくしを捨てて、心地良い寝床へ去ってしまった。今は、闇の中にはわたくしひとり。――いいえもう一人、野辺向こうの苫家に住まう、砧の音の主。あれは、どのような女なのであろう。目覚めている者とてない夜の底で砧を打ち続ける女とは。遠い、寂しげな砧の音。わたくしの墨の袖に沁みるには如何にもふさわしい。
 闇の中に風が香っている。秋の花の匂いがする。樹木が葉を落とす匂いがする。草が枯れて開けた野辺に射す、月のにおいがする。秋の彩りになじんだ風が、髪を通る。よどみなく、野の獣のように気ままに軽やかに駆け抜けて行く。宣下を受け斎院として賀茂へ赴いたばかりの昔、まだふりわけ髪であった童女の頃が思い出される。
 あの時、十――十一で父上や母上の元を離れひとり賀茂へ下るわたくしに、心細かろうと気遣って下さった大人の方々もあったけれど、わたくしは心細いなどとは思わなかった。斎院を務めることは、皇女として生まれた以上、ごく当然のこととして幼い頃よりわたくしの内にあったのだし、身を清らに慎んで神に仕えることもわたくしには嬉しかった。その思いは今も変わらない。病さえなかったらずっと、世間より隔てられたまま賀茂の宮にひっそりと寂しく暮らしていたかった。それが叶っていたなら、こうして世々の憂き目に思い乱れることはなかったであろう。胸の憂いにまかせてひとり月を浴びたりもせずに済んだであろうに。
 秋の風が髪を梳いて行く。尼そぎの髪が肩先で風に揺れる。風の優しい疾駆が心地良い。ふさいだ心とは裏腹に、何と愉しく、軽やかに舞い乱れる髪であることか。目を閉じてみると、まるで見えない指先がかき上げてくれているような。――これが、あの方の指であったなら。
 突如降りかかった、叔母上八条院様(※1)を呪詛したとの咎。その身に覚えのない疑いを晴らすべく強いられた出家であった。裳裾の上に引くばかりに長かったわたくしの髪。夜のように黒く、生まれたばかりの朝のようにつややかであったその美しさを、毎朝くしけずるその度ごと、女官たちは褒めそやした。今までの人生、ずっと背に重く垂れていた黒髪が肩でぷつりと断たれた時、わたくしは、わたくしという人間が、この世から死者の世へ追いやられたのだと確かに感じた。俗体を捨てるとは、成程こういうことであるのかと合点したものであった。これから先の年月、わたくしにどれくらいの命が残っているのかは知るよしもないけれど、もう髪を伸ばすことも、美しい色衣を纏うことも出来ず、墨染めに身を包んだ一個の死人(しびと)としての生を生きていくのだと思った時の、その虚しさ、寂しさは言い知れぬものがあった。
 父上(※2)におとりなしをお願いすることも、あるいは出来たであろう。けれどわたくしはそれをしなかった。なぜならそれは期待したためであった。胸中に病みついたあの方への思い、叶わぬ恋心を絶ち切ることが出来るかもしれぬと、密かに期待したためであったのだ。あの時の心を振り返ると、咎をすすぐことなどはむしろどうでもよく、わたくしを長いこと苦しめて来た恋情を絶つ方に、より重きがあったように思われる。
 あの方を如何にお慕いしようが虚しいばかりなのだから。あの方のお心がどうというより先に、皇女であるわたくしには人を恋い慕うことは許されぬ。しかしそれを承知していながら、世俗の慣習などものともせずあの方がこの手を取っては下さらぬだろうかと、そんな愚かしい夢に焦がれてやまぬ、わたくしの浅ましい心であった。
 髪を切り捨て美しい衣も脱いで、尼という、男女の交わりの決して許されぬ所へと身を追い込んでしまえば、あるいは心もおのずから静まって、恋情など何処かへ消え去るものとわたくしは思ったのだけれど。けれどただ形ばかり俗体を捨てたところで、俗世の未練というものは身体からも魂からも、容易に離れぬものらしい。身は僧形になったものの、心は豪も変わるところがない。未だに、寝ても覚めても、思いを寄せても詮方ない人を求め続けている。女性は仏の教えから遠い、業深い生きものであると世人が嘲り貶めるのも、あながち故ないことではないと思われる。
 何処よりか花の香りが漂って来る。香りとは、花の夢ではあるまいか。昼の喧騒にくたびれ切った花々が、夜露の臥所で貪る夢が、闇の底から立ちのぼりさ迷っているのではあるまいか。わたくしは唇で、花の夢に触れているのであろうか。今この時この夜の中で、あの方はどうしておられるのであろう。でも、よもやわたくしのように、寒々とした閨でひとり月見がてら物思いにふけるなど、してはおられますまい。肌のぬくもり、優しい余韻。快い眠りに沈んでおられるに違いない。
 あの方の孤独が、わたくしは好きであった。あの方の心には寂寞とした翳りが垣間見えると、ある歌会の席でそう洩らしたわたくしに、しかしその場にいた方は皆々、揃って不思議そうな顔を向けた。無理もない。確かに一瞥した限りあの方ほど孤独という言葉に縁遠い方はない。お人柄は常に明朗で、誰にでも闊達な笑みをお見せになるし、暮らしぶりも、今日はあちらのお屋敷、明日はこちらのお屋敷とお忙しく、人の訪れもわたくしなどよりずっと賑わしいのだから。
 けれどもわたくしには、ふとしたはずみに感ぜられることがある。あの方の体を時折通り過ぎる静かな翳り。心の奥に沈む、叢林のように深い影。そして心の影に踏み込むことを許さぬ、張りつめたみなもにも似た頑なな寂しいお心。わたくしには感ぜられる。木の葉の茂りのそこかしこに影が溜まるように、あの方も、ご手跡、お話をなさる声音の端、ふと鳴らした扇の音、その至る所に寂寥たる影が仄めいているのを。
 あの方の身に染みついた翳りを知ってからというもの、いつしかわたくしにとっても、孤独は、あの方と等しく慕わしいものとなった。わたくしが、いつの頃からかしばしば夜更けに起き出して、人けの絶えた庭を眺めるようになったのは、あの方ゆえなのだ。もみじ葉に美しく染め上げられた山裾の景色を見ながら、心は知らず知らず、木々のうっそうと生い茂った、獣しか棲まぬ深山の恐ろしげな静寂を慕いがちなのは、あたかもわたくしひとりがこの世に取り残されたような心持ちを楽しみたいがために、霧が都を閉ざす朝を待ちわびてしまうのは、皆、あの方の孤独を慕うがゆえなのだ――。わたくしだけなのであろうか、あの方の心の底、皆が気づいていない、心の深みを察しているのは。それともこう思うのは、恋するが故の、自らに対するひいき目に過ぎないのだろうか。
 月が澄んでいるせいなのか。今夜はいつにもまして夜闇が深い。闇が肌に妖しくからむようだ。こうして目を閉じて闇に肌で触れていると、纏った衣も体も皆夜陰に流れ去って、わたくしの心だけが、この窓辺に座っているような心持ちがして来る。このような怪しげな闇の中で、恋に胸を責められるがままにあの方を思いつめてよいものだろうか。誰にも知られぬよう肉体をもって堰き止めていた恋情が、夜の中に溶け出して、漂うて、おちこちの心無い人々の耳に届いてしまいはせぬだろうか。
 わたくしは、わたくしの恋を世人に知られるのが怖い。落飾した身でありながら、恋人への捨て切れぬ思いに懊悩しているなど、どれ程の嘲りと蔑みに晒されることか。慎ましげに僧衣を纏ってはいるが、その実、肌には醜い淫欲が蛇体の如くからみついているのだと、人は面白く噂し合うに違いない。それにも増して耐え難いのは、その中傷がわたくしのみならず、間違いなくあの方へも向けられるであろうことだ。
 貴い玉のように手の中に大切に守って来た恋であるものを。あの方の煩いになりたくない一心で、頑なに、あの方にすら洩らさず秘めて来た心であるものを。それが、ただ世人の退屈をまぎらすために、醜聞にされ、面白半分に汚される様など見たくはない。一体、恋の心などこの世で誰も識る者はいないのだから。世人が識るのはただ肉の欲望のみではないか。
 明日尽きる命であってくれればよい。今宵限りで死ぬ身なれば、人の目も噂も、もはや何を気に病むことがあろう。胸を噛むこの行く方ない遣る瀬なさを、何もかも打ち捨てて今宵、あの方へ告げるものを。
 ――だけれども。あの方は、しかし、わたくしの恋を如何様な心持ちで聞くだろうか。なぜならわたくしがお慕いしているなど、恐らくあの方は露ほども気づいてはおられない。自らの思いを微塵も窺わすまいとずっとわたくしは心を砕いて来たのだから。法皇後白河の皇女、宮中にて顔を合わせれば親しげに言葉を交わす大勢の知己の中の一人、あの方はわたくしを、ただそのように見ておられるだけであるというのに。そんなわたくしから恋情を告げられたとて、あの方はただ戸惑い、困惑するだけではないのか。好意とはなべて善きもので、人にはきっと善き形で届くとは、それは無邪気な愚昧に過ぎぬ。童女の如き愚昧をわたくしはあてにはしない。意中でもない女から唐突に告げられた恋など、いきなり投ぜられた礫(つぶて)、故のない悪意と変わりはしないのだ……。
 ――いいえ今は、あえてそのようなことは考えまい。明日尽きるこの命であればよい。ただ死のみが、わたくしに恋の告白を許すものであるのだから。絶えよ、絶えよ、命など、今宵限りに絶えるがよい。
 しかし、思えばわたくしの恋は常に歌の世界にあったのではなかったか。歌会にて恋の歌を求められる。待ちわびる恋の趣をと。たちまち、わたくしの魂は歌詞(うたことば)を拠りどころにして飛び立つ。そうして天上までも舞い上がった魂に一滴、清らな玉露のようにこぼれ落ちて来る、恋の情。肉体の入り交じらぬ、澄み切った、言葉だけの交わり。歌の中に刹那の間ゆらめく恋の情感、歌詞の引き寄せる美しい恋の幻を、わたくしは愛していた。
 歌の中に恋を手さぐったあの心と比べると、あの方への恋情にやつれた今のわたくしの心は、何とみすぼらしいことだろう。戸惑いと沈黙、行方の知れぬ迷妄と故の分からぬ痛み。泥濘の暗い混沌が心を覆うばかり。そしてかつて恋歌の巧みと称えられたはずのわたくしは、心の迷いに手もつけられず、木の洞にこもった虫のように、息をひそめてただ耐えるより他にないのだ。わたくしは我が心に問うてみたい。あのまま歌の世界にのみ生きていてはいけなかったのかと。
 ――あの方は花であった。ふとした気まぐれに足を踏み入れた叢林。木暗い枝をかきわけたわたくしの前に、突然に現れた梅の花樹であった。花に見惚れ、枝ぶりに驚くうち、いつしか梅花の香りはわたくしの袖に移り、面影は心の底に沈んだのだ。今ひと時、あの方のお声が聞きたい。言の葉が欲しい。あの方の言葉は常に真摯で、まことであった。時に親族、親きょうだいの間でさえ、言葉の裏を読まねばならなかったわたくしの人生。その中で何考えることなく身を投げ出してその言の葉を信じることの出来る、唯一人の方であった。あのようなお心ばえの方を、わたくしは他に知らぬ。
 今もわたくしは覚えている。一度きり歌を交わした春の夜のことを。無論それは恋歌でも何でもない、目の前の景色を詠んだ情景歌であったけれど。わたくしとあの方とは、この世では何の男女の縁もなかったかも知れぬ。けれどあの夜、わたくしたちの交わした二つの歌は、言霊となり、穢れのない無何有(むかう)の地でこの世ならぬ縁を契ったのではあるまいか。わたくしは幻を追わずにはいられない。二人の唇から昇った歌の言霊が、天上で神の膝に守られひっそりと寄り添う様。全ては虚しい夢と知りながら、追わずにはいられない――。
 いつしか砧の音も絶えた。夜は更け、ただ月ばかりが冴え増さる。銀の雨のように地上めがけて降りそそぐ、月の光よ。まばゆい月明かりはあまねく地に満ち満ちて、わたくしの憂う心はもはや何処へも逃げられぬ。月影の中に花が燃え、香りが昇る。ああ、袖が冷たいこと。このまま冷えた墨の袖にうち臥して、わたくしも、わたくしの恋も、何も何も石になってしまえばよいものを。

―了―    

※1.叔母上八条院様……鳥羽天皇の皇女、あき子内親王(「あき」は目+章)。式子内親王は一時叔母の屋敷に身を寄せていたが、叔母が病になった際、内親王の呪詛によるものとの噂が立ち、内親王は押小路殿に移って出家した
※2.父上……後白河法皇


                    
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