「――その本を手元に置くのはおやめ下さいませ」
 隆包は義隆を諌めた。先述の如く、隆包は表紙革が人皮であるとは信じていなかった。が、真実はともかくその本が人皮装本として人から人へ渡って来たのは紛れもない事実であり、そしてそうである以上、故なく残虐を好む人間の暗い念が本の上にいつしか宿り、主の身の上に凶事を呼び込むのではないかとの不安を覚えたのだった。しかし
「死骸とそなたは申すが、これはもはや死骸ではないぞ」
 義隆は笑ったきり、相手にしなかった。
「御屋形様」
「まあ聞け、例えば髑髏などは、そなたの申す死骸じゃ。たとえ薄濃(はくだみ)をほどこし台なども取りつけ飾り物に仕立てようとも、骸(むくろ)以上のものにはなれぬ。何故ならば人間の死というものをその上に生々しくとどめておるが故じゃ。だがこれはどうだ」
 義隆は掌に本を乗せ、もう一方の指先で表紙に触れた。磨かれた石の感触や、丹念に切り込まれた模様のなめらかな凹凸を愉しむように、ゆっくりと撫で下ろした。
「何処に骸の匂いがあろう。何処に死の翳りがあろう。間違いなく人の屍(かばね)でありながら、しかし人皮云々というその謂れより先に一個の美として見る者を捕らえるではないか」
 両目を見開き輝かせ、義隆は拳で己の膝をはっしと音のする程に打った。高ぶった口吻で、言葉を続けた。
「死こそはこの世の穢れであり、最もおぞましき闇じゃ。それは魂の剥ぎ取られた屍とて同じことじゃ。しかしその、穢れであるはずの骸をもって、一個の世にも美しい細工物を拵え、しかもそれが人の生きるよりも遥かに長き時を刻んだならば、それはもはや死骸とは呼べぬではないか。死という穢れが天上の美へ昇華するのだ。その夢幻を思うてみよ。この人皮装本のことを耳にした時、わしは何よりそこに惹かれたのだ」
 そこまで語って、しかし義隆は急に口をつぐんだ。ふいと立ち上がり、何をするかと思えば床の間の棚から漆黒もつややかな文箱を手に取った。流水と、みなもに遊ぶとりどりの秋草とが見事な金蒔絵であしらわれ、ふたの四隅には大内菱を象嵌した銀の飾り金が留められてある。美しくも優しげな匂いを漂わすこの文箱は、義隆の儒学の師小槻伊治の娘で、今は継室となっているおさいの方の元へ通い始めた頃に、そのおさいの方より贈られた品であった。義隆は、革装本の代わりに今度は、昔日の恋の思い出の文箱を膝に抱えた。顔をうつむけ目を見開いて、前に隆包がいることなど全く忘却したかのようにいつまでも文箱に見入っている。あたかも、鏡面のような黒漆のおもてをとおして奈落の遥かな深みを覗き込むようなそのまなざしに、隆包はあとはほとんど話もせず、全身を冷たい汗に濡らしながら、謁見の場を下がったのだった。
「御屋形様があの本の何に魅せられたものか、結局のところわしには解せぬ。あの文箱と何の拘わりがあるのかも分からぬ」
「……」
「しかしあの時の御屋形様の目には何と言おうか、鬼気迫るものがあった。このようなことを言うてはと思うが、もしも今御方様が亡くなられたら、それこそその皮を剥いで件の文箱を模した人皮装本を作ろうと言い出されるのではあるまいかと、そう思えてならなかった。――以前よりお体の具合はすぐれずにおられたが、お心までも病んでしまわれたのであろうか……」
 語り終えると隆包は、重いため息まじりに首を振り、茶碗に手を伸べた。その背後に風のざわめきが遠く行き過ぎた。
 暗くなる前に岩国の宿に入りたいからと、隆包は程なくして陶館を後にした。隆包が帰ると共に、懐かしい山口の匂いは消えうせ、富田の地は再び、枯野が呼ぶ寂寞ばかりとなった。近くを流れる富田川のみなもから身を切る川風が、虚ろなざわめきを物悲しく運んだ。隆包を見送ったあと、門の前に佇んだまま長身の体を寒風になぶらせ、隆房は隆包の語り置いた話をあれこれと心の内に追った。政敵である相良武任が山口に戻るかもしれぬこと。文治派が巻き返しを図り、こちらの与党を切り崩しにかかっていること。そして巡らせる思いは最後にどうしても、義隆が魅せられている人皮装本の上へと流れ落ちた。何故義隆が人皮装本にそれ程までに心惹かれるのか、隆房にも理解は及ばなかった。しかし義隆の美学とはまた別に、隆房は隆房で、人体で細工物を作るというその行為に、どこか引きつけられる自身の心を感じていた。隆房の中に鮮やかに残ったのは、誰が創ったのかももはや分からぬ、あの王と寵姫の悲恋の説話であった。武人である隆房は、自らの命にも肉体にももとより未練はなかったが、しかしかけがえのない者を失った時に、その者の生命を一個の美しい物体に凝固せしめ、永遠の命を与え、この世にその人の痕跡をとどめたいと願う、その心は畸形的であるなりにも理解出来るように思った。その思いはやがて、主義隆の上へと下りた。――いざという時は、すなわち、義隆の隠居と若子義尊の擁立が、文治派によって阻まれ政変成就せずとなったその時は、ここより兵を挙げ、主を刃でもって除かねばならぬ。戦火となれば、騒乱の中若子を救い出すことは難しい。哀れだが父子共々死んでいただくことになろう。
『挙兵などせずに済めばそれに越したことはない。しかし』
 結局自分は、主君を手にかける運命にあるのではないか。天の定めた運命など信じぬはずの隆房であったが、人皮装本の持つ妖気のせいであったのだろうか、この時ばかりは悲愴な予感じみたものが身の内を冷たく掠め、隆房は覚えず、風の中両肩を震わせた。その心を映したように、灰色に垂れ込めた空の地平に近い所を、黒い雲が一筋流れ去った。
 隆房の心に兆した雲は、晴れることなくやがて嵐となった。八ヵ月のちの、八月二十九日、遂に隆房は義隆を弑すべく兵を挙げ、内藤興盛、杉重矩と共に、兵五千を率い山口に攻め込んだ。無勢の不利を悟った大内館の守兵は早々に逃走し、義隆はほとんど抗戦できぬまま、ごく数名の近習と共に館を脱し、夜陰に紛れて長門へと逃れた。仙崎の津より海路、姉の嫁ぎ先である石見の吉見正頼を頼ろうとしたのだった。しかし暴風に船が阻まれて果たせず、仙崎から程近い湯本の大寧寺に追いつめられた義隆は、追っ手の囲んだ中、方丈に火をかけ自害して果てた。

 山口の町が戦火に包まれて数日、富田の野末を男が歩いていた。丈短に纏った渋染めの衣はあせ、蓬髪の、笠の下からみすぼらしく垂れる様が夜目にも分かった。その異様な風体が示す通り、男は川辺に住まう河原者であった。革のなめしがなりわいであり、今夜は近くの商人より急な仕事を頼まれ、屋敷へと向かっているのであった。男の背後には秋の三日月が、未だ浅い夜に白い爪跡を残しながら、はやもう西の山の端へ沈みつつあった。乳色に薄らいだ月影が野路に射し、射したその上に男の影が一筋、黒く落ちていた。
 領主陶隆房の、叛乱軍を率いてものものしく山口へ駆け去るのを人々が見送ってから十日ばかりも過ぎていたが、しかしその後の顛末については、隆房が山口を制圧したことも、義隆が自害したことも、ここには未だ聞こえておらず、領民の上には行き先の見えぬ不安がひっそりと覆っていた。が、夜道を行く河原者の足どりには、そのような不安はつゆほども見えなかった。叛乱も何も、彼にとってはどうでもよいことであった。国の主が斃れたとて、または逆に領主陶尾張守が斃れたとて、自分のように地を這い回って生きる者の暮らしの、何が変わるとも彼には思われなかった。今夜は久し振りに仕事が入った。そしてその仕事を注文通りにこなせばいくばくかの銭が入る。それ以外に何を考えることがあろう。肩に下げた麻袋の中で仕事道具が打ち合って鳴り、それに応えるように、野路の片側に沿うて茂る叢林の中にトラツグミが闇を衝いて鋭く鳴き交わした。
 屋敷に着いた頃には月は山陰に落ち、墨壷の底に降りたような惣闇(つつやみ)が地を浸していた。裏門にまわり二、三度叩くと門はすぐ開いた。明かりを手に初老間近い男が顔を出し、見ればそれは河原者を呼びつけた商人その人であった。主人直々の出迎えに河原者が面食らうのも構わず、商人はすぐに、河原者を屋敷の一番奥まった一角に立つ土蔵へと伴って行った。重い扉が引き開けられると、隙間からひんやりとした空気と絡まって灯火の明かりがとろりと滑り出た。促されるまま河原者は土蔵に入った。内部は物を取り片付けたのか床が広く空けられ、その広い床の中央に灯を傍らに三人の鎧武者が立っていた。一人は臙脂と見える赤縅の鎧を、残る二人は黒韋縅の鎧を纏い、甲冑などの感じから河原者は咄嗟に、黒韋縅の二人は赤縅の武者の従者と察した。扉の開いた音に一斉にこちらを振り向いたが、三者三様に頬が黒くすすけ、深く下ろした目庇(まびさし)の下に開かれた目が、荒んだ殺気のようなものを帯びているのが恐ろしくも不可解であった。足元の床にはひと抱えもある大きな荷が、菰をまわし縄をかけた格好で置かれていた。
 その場の異様さに呑まれ、平伏することも忘れてぼんやり立ち尽くしている河原者の後ろで、扉が閉じた。戸板の向こうで音がし、商人の手で外から閂が掛けられたようだった。
「お主がかわた(皮革職人)か」
 赤縅の武者が口を開いた。今にも頭をひしがれそうに威圧のこもった声に、河原者は慌てて被っていた笠をむしり取り、「左様でございます」と柿色の布で覆った頭を床にすりつけた。荷が解かれ始めた。がさがさと乾いた音と共に縄がほどかれ菰が一枚ずつ取りのけられ、と、這いつくばった河原者の鼻先に何かの臭いが触れて来た。一足踏み入れた時から、この土蔵の中にはカビとは異なる異臭がうっすらと漂っていたことに、河原者はふと気がついた。しかしその臭いは、菰包みが解かれ出したのと同時に、甘酸っぱい、それでいて胸のむかむかする臭気に強まって辺りに一斉に溢れ出したように思われた。好奇心を抑えきれず河原者は恐る恐る目を上げた。菰の最後の一枚が黒韋縅の手で剥ぎ取られ、床の隅に放り出されるのが見えた。

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