大きな素焼きの瓶だった。備前のものとおぼしき、光沢を含んだ褐色の肌は湿気を帯びて薄く曇り、灯火を近づけると肩の辺りに浮いた胡麻の窯変の上を露が筋を引いてつたった。口を包んでた油紙が除かれ、木蓋がこじ開けられた。焼酎の匂いが、それから今やはっきりと、生き物が腐敗を始めた悪臭がむっと鼻を打った。黒韋縅の一人が瓶に両腕を差し入れた。続いてもう一人も、同様に両腕を肩口まで差し込んだ。ざぶりと、小さく水音が聞こえ、そして次の瞬間。床に横たえられたものを見て、河原者は声にならない悲鳴と共に、その場から一間以上も後ろに飛び退いていた。
 その死体は透ける感じに体が白かった。身には下帯すらつけておらず、そのせいで汚れた床の上になおさら肌の白さが際立った。そして肩から上はちょうど壊れた人形のように鮮やかに首がなかった。こちらにまっすぐ向いた斬り口は、肉が暗紅色とも海老茶とも言われぬ不気味な色に変色して盛り上がり、その肉に埋もれて覗いた骨ばかりが磨き上げたように白い。それを目にした途端、河原者は腹の底が酸っぱく泡立った。こらえる間もなく、開いた口から太腿の上へ、腹の中のものがどっと溢れた。死体の発する屍臭と吐瀉物の饐えた臭いとが、混じり合って充満した。黒韋縅の武者が歩み寄って来て両脇から河原者を捕らえ、容赦もなく死体の前に引きずり戻した。
「かわた。お主の仕事は、この屍から革を作ることだ」
 声と同時に、目の前の床にはちきれるばかりに膨れ上がった皮袋が落ちた。銅銭のぶつかり合う音が小さくした。
「野の鳥、獣と同じやり方で、人からも革が取れると聞き及んだ。出来ぬとは言わせぬ。この骸の皮を剥ぎ、一枚のなめし革を作れ」
「な、何卒」
 声を絞って河原者は喚いた。いつの間にか咽が全く干からび、声を破って叫んだ拍子に、咽と鼻の奥に血の臭いがした。
「お許し下され。何卒、お許し下され。これは、そのようなことは人のすることではございませぬ。どうか、そのように恐ろしきことは……」
 哀願の声に歯の打ち合う音が混じり、唇の間からは見苦しくよだれがつたった。河原者はそのまま床に崩折れた。すすり泣く声と、震える指が床板をかきむしる音が、蜘蛛のように這いつくばった体の下から聞こえた。土蔵の中は少しの間、しんと静まった。
「――かわた」
 いきなり頭上で声がした。赤縅の武者の声ではない、もっと低く澄んだような声である。声調こそ静かであったが、河原者は何か心臓をわし掴みに掴まれたような心持ちがして、ぎょっと飛び上がった。
 いつの間に現れたのか、目の前に肩幅の広い、体つきの逞しい男が立っていた。この男だけは甲冑を着けておらず、しかしその体躯から武士であることは疑うべくもなく見て取れた。背が高く、赤縅の武者の隣に立つと、決して短躯とは言えぬその武者よりも男は頭半分程も上背があった。土蔵の薄暗い隅から、これまでのなりゆきを見ていたのに違いなかった。非礼も忘れて、河原者は思わず長身の武士の顔を仰いだ。頭巾を深く被り、面頬を着け、面立ちはまるで分からなかったが、しかし頭巾の下に流れるように見目の美しい、濃い眉が窺われた。切れ長の両眼は黒く静穏であったが音を立てそうな底力がみなぎり、視線に射すくめられて河原者は総身を震わせた。
「かわた」
 よくとおる声で、武士は言葉を継いだ。
「我々とても、この屍を残忍な思惑でなぶろうというのではない。無論仔細は明かせぬ。だが、ある方の供養のためと思うてくれればよい」
「供養……」
 夢寐(むび)のように河原者はその言葉を繰り返した。彼はしばらく、憑かれたように武士の目を仰いでいたが、やがて、首を折るようにしてがくりと頭を頷かせた。明確な承諾の意思を見届け、武士は傍らの赤縅の武者に目で頷いて見せると、戸口の方へ静かに身を翻した。拳で軽く打つと閂の外れる音がし、扉が開いた。長身の影は霧のように扉の向こうに吸い込まれて消えた。それから、河原者は赤縅の武者から様々な注意を与えられた。作業は全てこの土蔵で行い、仕上がるまで出てはならぬこと、水洗いなど屋外に出る必要がある際はこの家の者に告げること、食事、風呂は家の者が世話すること。河原者は阿呆のように、ただいちいち頷いた。
 そして、河原者はがらんとした土蔵の中に何処の何者とも知れぬ死体と共に、ひとり残された。茫然とした有様で、彼は死体の傍らにぺたりと座り込んだ。この骸から皮を剥ぐことが誰かの供養になるとは解せるはずもなかったが、しかしともかくも忌まわしい理由によるものでないことだけは、彼にも理解出来た。そうして多少安堵してみれば床に転がった銭袋は惜しくもなり、かつまた、断ればこの場で殺されるのではないかという別の恐怖にも駆られ、結果として頷いてしまったのであったが、いざこうやって首のない死体と閉じ込められてみると、よくよく、おぞましい仕事を請け負ってしまったものだと思った。
 暗いため息をついて、河原者は死体の痛み具合を調べ出した。腐臭はひどかったが、酒に浸けてあったためか腐敗の兆候はまだ体の上には現れていなかった。体つきの感じでは、歳の頃は四十から五十くらいであろうか、肉づきが良く、肌も健やかできれいだった。目立った傷もなく、少なくとも道の端に打ち捨ててあったものを拾ってきたというのではないようだった。灯火を近づけて調べるうち、河原者は死体の腹部に斬り傷のあることに気がついた。へそから三寸ばかり下がった辺りに真横一文字、脂肪が覗く深さに走っている。
『さては、この御仁は腹を斬って死んだのか』
 首の斬り口が紙でも切ったように鮮やかなのもこれで合点がいく。短刀で腹を掻き斬り、しかるのちに介錯人が一刀のもとに首を落としたならば、まさしくこのような死体が出来上がるではないか。
『しかし』
 河原者は首をかしげた。介錯人がついて切腹したならば、名のある武家の者ということになる。そう言えば山口での叛乱は如何様になったのであろう。この富田の地にいるということは、先程の侍どもはやはり陶ゆかりの者であろうか、ならばこの死骸とは……。
 突然飛び上がるように身震いし、河原者は頭に浮かびそうになった考えを身体の外へと押しやった。彼は慌てて死体のそばを離れ、戸口に放ったままの麻袋を取りに行った。今晩はとても眠れそうになかった。道具の手入れをしながら、仕事が出来るようになる夜明けまで時を待つつもりであった。目の前の死体は何者であるのか、それはもはや生涯考えまいと堅く心に決めた。この世には気づくべきではないことがあるのだと、震えながら思った。

 義隆亡きあとの大内家では、豊後大友家より義隆の甥、晴英を新しい当主に迎えることとなり、隆房らは仕度に追われた。慌ただしく時が過ぎ、年が明けて正月の一日。隆房は隆包と共に氷上山興隆寺に足を運んだ。この日は義隆の命日であった。毎月の命日に大内家の氏寺であるこの興隆寺に詣でるのは、政変以来隆房と隆包の間の申し合わせであった。本来ならば大内家は白石の龍福寺が菩提寺である。しかし龍福寺は隆房が山口を攻めた際の兵火で焼失の憂き目を見、そのため今大内家の人々の御霊は氏寺に祀られているのだった。
 早朝の陽が境内に満ちていた。緑葉を落とした枝々の間から陽光は透明な出で湯となって溢れ、どこか凄惨なまばゆさを伴って地を流れた。寒々と開けた景色の中に、年若い僧がひとり佇み地面を掃いていた。青く剃りこぼった頭をうつむけ、回廊を人が渡って来たことにも気づかず一心に箒を動かしている。真白く凍てついた息が白妙の如くに僧の首元に纏いつく様を横目に見ながら、二人は仏殿の入り口をくぐった。朝の掃除も勤行もとうに済んだ仏殿は人影もなく、がらんとした静寂の中に本尊の釈迦如来の坐像だけが二人を迎えた。馨しい香の残り香を踏んで、隆房は隆包と奥へ進んだ。ところどころに金の彩色をとどめた如来の笑みの下に、墨跡も新しい位牌が据えられている。法名は龍福寺殿瑞雲珠天。義隆の位牌であった。祭壇の前で、隆房は小脇に抱えて来た包みを解いた。紫紺の平包みの下から現れたものを目にして隆包は絶句した。現れたのは一冊の革綴じの本であった。黒漆にも似たつややかな黒色に染められた表紙革には、流水紋と秋草の吹き寄せが金箔押しでほどこされ、大内菱を象嵌した銀の飾り金が四隅を囲んでいる。おさいの方より義隆に贈られた文箱、あの日隆包に向かって人皮装本の話を語りながら義隆が手に取った文箱と、それは瓜二つであった。 
「尾州殿、それは――」
 咄嗟に恐ろしい予感に捕らえられ、隆包は声を震わせた。が隆房は口をつぐんだきり、その声には応えようとしなかった。ただ文箱と見まごう程に美しいその革装本を主の位牌に供え、そして静かに、両の目を伏せたばかりであった。

―了―
                 
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