居ずまいを正すと、久秀は落ち着き払って茶を点てにかかった。棗、茶杓と拭い清め、茶碗に湯を掬って茶筅をすすいだのち、湯を建水に捨てる。改めて茶碗に挽き茶、続いて湯を柄杓で注ぎ入れるとさらさらという音と共に軽やかに茶筅を使い始めた。それらの動作は一つ一つ紙を折ったようにきっちりと型どおりであり、かつ、一つの所作が次の所作をおのずから導き出すかのような伸びやかな流麗をもって微塵の躊躇もなく次々と流れ、見ていて美しかった。語らううちに傾きを増した陽が点前座の壁に四角く穿たれた窓に斜めに落ちかかって、入った時には薄暗かった茶室はいつしか柔らかい光が入り込んでいた。点前座の窓外には池が横たわるのだが、みなもから照り返った光は障子の上に飽くことのない集散を繰り返し、その明るく乱れる斑文と茶筅の清かな音の中、しばし深閑とした時が流れた。やがて音が止み、茶が出された。淡い灰褐色の地に乳白色の釉をかけた茶碗は、底にとろりと泡立って静まる鶯色の鮮やかさが際立ち、含むと冴え冴えとした苦味が舌を滑って身に染み透った。春未だ浅い山の岩棚から滴る雪解けの清水を唇に受けた清冽さとでも言おうか、その芳醇に久通は覚えず酩酊の息をついた。
「良き茶にございました」
 喫し終えて茶碗を置くと、久秀はごく穏やかに顎を頷かせて応えた。その半生を富権力を手中に掻き集めて費やした、言わば我欲の権化とも呼ぶべき父が、一服の茶にこのような深山幽谷の清澄な寂寥を封じ得るとは、思えば不思議というより他ないことであるが、とは言え、何事につけ派手やかなことを好むはずの父が、事茶の湯に関しては師武野紹鴎の教えにひどく素直で、屋敷の片隅に草深い庵を構え、顔つきまで俗世を捨て去った隠遁者のそれに面変わりさせて茶を点てている姿を見るにつけ、久通は、人生において恐らく一度も表出せぬまま、心の奥に埋もれていた父のとある一断面を、束の間垣間見る思いがするのだった。その久秀はさっきから洗練された手つきで静かに象牙の茶杓に拭いをかけている。窓の下でぼしゃん、とかすかに音がして障子に水影が細かく乱れた。魚を放っているはずはないので、池に紛れ込んだ水鳥であると思われた。
「座敷も、見事でございますな」
 障子紙に映る影の雅やかな舞を見やりながら、久通は洩らした。
「私の如き不粋者があれこれ批評を加えるのはおこがましゅうござるが、俗世を離れた静謐の境地とはかようなものであろうかという気が致しまする」
「ふふ、そうか」
 こちらへちらりと目を上げ、久秀は目元に笑いじわを走らせた。師に就いて修業はしたものの茶人としては自分に遥か劣る久通が、茶に関して何を述べようが、それが批判であれ賞賛であれまるで相手にしないのが常である久秀には、珍しい反応だった。拭い終えた茶杓を傍らに置き、
「うむ、この草屋(そうおく)はわしも気に入っておる」
 ひどく機嫌良さげに言った。
「お主の申すように、この新しい小座敷は、風と言おうか、気とでも言おうか、ともかくそれが清らに澄んでおる。ここに籠もると茶にもおのずから華やぎが出るわ。どうじゃ、飲んで分かったかの」
「華やぎですか。そう申されればどことなく」
「何じゃ、どことなくとは。ふふ、まあ良い。それでな、この座敷に置くに相応しい道具がないものかと、わしは目下物色しておる」
「ははあ。道具、とは釜ですか」
「いや、良きものであれば釜でも茶碗でも構わぬのじゃ。が、本当は良き茶入れがあってくれるとよい」
「成程、茶入れ。して、めぼしいものはございましたか」
「まだ見当たらんのう。確かに良い値のものはある。が勿論のことそれだけではならん。この場にしっくりと溶け合わねばならぬのだが、これといったものがないのじゃ」
「父上の目をもって捜してもないとなると、これは難しい捜し物ですな」
「左様、難しい。難しいがしかし、唯一つ心当たりがないでもない」
「ほほう、それは」
「ふふふ、九十九髪茄子よ。あれを岐阜の城より奪い返して据えれば立ち所に解決するわい」
『九十九髪茄子?』
 一瞬、ひやりとしたものが久通の身の内を流れた。それは久秀が、永禄十一年(一五六八)信長の上洛に際して献上した唐物茶入れだった。もとは足利三代将軍義満が秘蔵していたという名品で、八代義政の時に将軍家の手を離れたのちは、その名声に恥じぬ高値で数寄者の手から手へと渡って来た茶人垂涎の品であり、銭一千貫という大金を投じて久秀がこれを買い取った時などは、世の茶人という茶人、ばかりか京や境の町衆から茶など飲んだこともない城下の農民の間でも大変な話題となり、人々はこぞって、羨望のまなざしを注いだものである。それほどの宝器を久秀が惜しげもなく献上したのは、これは恭順のしるしということだけでなく、当時足元を脅かしていた三好三人衆掃討の助力、加えて久秀を憎悪する足利義昭との仲立ちを信長に求めた、その見返りでもあったのだった。信長はすぐさまこれに応え、和田惟政、細川藤孝、佐久間信盛らの軍を援護に差し向け、久秀に対しては「大和一国は切り取り自由」の下知を出した。
 その役目を充分に果たした九十九髪茄子であるが、ところでこの茶入れに関して、一つの噂を久通は耳にしたことがあった。ある時のこと、座敷に座し満悦の体で茶入れを眺めていた信長は、ふと傍らの者へ顔を上げ、九十九髪茄子もようやく納まるべき所に納まった、とそう洩らしたというのである。これは世に一流の茶人と認められている久秀を九十九髪茄子の所有者には相応しくないと酷評したとも受け取れ、だとすれば随分と礼を失した発言に違いなく、聞いた時は久通も、田舎大名が何を言うものかと頭に血を上らせたのだったが、しかし一時の興奮が収まってみると、非礼はひとまず置いて、信長がそのようなことを口にしたわけも分かるような気がした。信長という男は生来美というものに対する憧憬、崇拝が激烈なほどに強い人間で、それは生まれ持った豊かな美感と、自身の感性への絶対の自信によって育まれたものではないかと久通は見ている。一方、翻って父久秀はと言うと、宝玉の輝きを持つ茶道具の名品であれ、神仏の奇跡によってこの世に咲き出でた美姫であれ、全てはただ身辺に掻き集め侍らせて、自己を飾り世に顕示するため、要は単なる奉仕物としか考えていない節があった。久通の目にすらそう映るのであるから、美の信奉者の如き信長にしてみれば、久秀の所行は美への侮辱、憎悪してもしきれぬ醜悪に違いなく、それ故九十九髪茄子の美しさを愛するほどに、久秀への嫌悪がいや増しに湧き上がるということかもしれなかった。
 ところで件の信長の言葉を、久秀の方は聞き知っていたのかと言えば、ちょうど松永家が織田家と良好な関係を築きつつあった頃でもあって、要らぬ波風を立てまいと久通は聞いた噂を胸にたたみ込んで父には洩らさず、久秀もまた知っているような風は今日に至るまで気振りにも見せたことがないのだが、しかし耳聡い久秀のこと、実のところまず間違いなく聞き及んでいたに相違ない。手放して以来、久秀はまるで忘れたかのように茶入れのことは口に出さなかったが、しかしただ一度、
「九十九髪茄子は惜しいことをしたのう」
 口の中でそう、一言きりつぶやいたことがあった。それはまさしく五年前、足利義昭に与して織田家より離反するとの松永家の方針がいよいよ定まったある晩のことで、父子向い合って酌み交わしていた盃を運ぶ手をふと止めて言ったのだったが、その刹那父の両眼に閃いた鬼気迫る光、腹の底に腐り溜まった血が咽を押し上げて吐瀉されたような、べっとりと黒い情念を含んだ口吻の凄まじさに、久通はぞっと息を飲んだものだった。久秀が武田の上洛に合わせて信玄に内通したのは、信長に義理立てして武田騎馬隊の蹄にかけられるよりも、離反して鞍に乗せてもらおうという打算からであることは間違いない。が、しかし理由は真にそれのみであったか。久秀より歳若く、茶人としての位置づけも低く、心中屁とも思っていなかった信長より事もあろうに茶のことで冷評を浴びせられたというその鬱憤、積怨、生来恨み深い久秀のこと、謀反を決意した時胸の内にそれらの思いが全くなかったとは決して言えまい。
 そうして今、久通がおののいたのは父の口から思いもかけず九十九髪茄子の名が出たばかりではなかった。それを口にした父の中にあの晩と同じ粘ついた情念の火が一瞬散ったのを見たためだった。
「――父上、茶をもう一服所望致します」
「うむ」
 茶碗を引き寄せようと伸べた久秀の手首を、久通の指がひたと押さえた。何事かと振り上げた久秀の目と久通の目とが、がちっとぶつかった。
「父上」
「何じゃ」
「何卒妙な考えは起こして下さいまするな」
「何のことじゃい、唐突に」
「五年前の如き荷厄介は、私はもう御免こうむりまする。それに松永家もまた、今ひとたびあのような大疵を負わば、二度は立ち上がれませぬぞ」
 一瞬、久秀の片目がぴくりと見開かれたようだった。が、それはすぐに上下から押し寄せた笑いじわに覆い隠され、久秀はにやにやと相好を崩した。
「ははは、たわけめ、何という顔をしておるのじゃ。何事も考えとりゃせぬわい。それにな、お主の言う妙な考えを起こしたくとも、どのみち術を仕掛ける種がないわ。どれ、手をのけぬか」
 久通の指を払いのけ、久秀は口尻に浮かべた機嫌良い微笑を曇らすこともなく、軽やかに茶を点てた。が、今度の茶は一服目と比べると少々濃過ぎるようであった。
「久通、茶はこれくらいにして、あとは酒に付き合え。昨日美味い魚が届いたのを、鱠にしてあるのじゃ」
 茶碗を置くのを待って久通をそう言って誘い、久秀は自分から席を立った。そのあとの酒はいつもながら夜が更けるまで打ち続き、久通はこの日そのまま父の屋敷に宿を取った。褌一つで酔い潰れた久秀が花御前らの手で寝所に運ばれて行ったのを見届けて、久通もまた用意された寝所に引き上げた。少し風に当たって酔いを醒まそうと、小姓に雨戸を開け放たせ、それから湯を命じた。
「厨に麦湯があったように覚えまする。酔い醒ましには湯よりもそちらのほうが良うございましょう。貰うて参ります」
 そう言い置いて小姓の足音が薄闇の廊下を遠ざかると、辺りには葉叢のざわめきだけが残った。葉音はおちこちから絶え間なく吹き寄せて、時には木の間(このま)を巧みにくぐり抜けて庭にまで入り込み、濡れ縁に出ると酒に火照った頬に夜気をはらんだ風が冷たく触れた。紺青の静かな春天には中空に少し端の欠けた月が朧にかかり、その月を仰いで久通は憂いを含んだ吐息を深く洩らした。茶室で、謀反などという気は起こさぬようにと諫めた久通に、久秀は一瞬口の端にこわばった妙な笑いを覗かせ、それから、謀反など考えようにもどのみち術を仕掛ける種がないと、涼しい顔で答えた。そうかもしれぬ。しかしもしも、その仕掛ける種があったとしたらどうであったろう。それでも父は、あの場で同じように答えたであろうか――。
 思案を巡らせるうち、久通の胸中に耐え難い倦怠が重くのしかかった。黙然と見上げる先には、天へ向かって突き上げる木々の黒々とした影から逃れて一片の朧月(ろうげつ)が、うるんだ仄明かりをしんしんと降らせている。刹那、その白光の一滴に、地を覆う闇を照らして一条下ろされた御仏の慈悲を重ねたいと乞い願い、久通は束の間食い入るように月光に見入ったが、やがて目を伏せてしまった。今にも融けて流れ去ってしまいそうに頼りなく夜陰にたゆたう月の影は、救世の御手どころか、ままならぬ浮世の虚しさ、人の生の儚さそのものであるように思われたのだった。今日のような日、澄み切った陽光と柔らかな静謐に満ちたのどやかな日は、自分の人生にはもはやないだろう、目を伏せる久通の胸を、ふとそんな思いがよぎった。それは久通の中でたちまち凍てつく寂寞となって冬の波の如くひたひたと心身を浸し、身じろぎもせず首垂れて久通は、ただ葉叢の、淡い月明かりの下蕭蕭と流れる音を聞くばかりであった。

―了―
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